奥井 禮喜(月刊ライフビジョン発行人)
2008年5月27日KYとは空気が読めない奴のことだそうな。そんなのは、いつの時代でも到る所にいる。むしろ、その空気が汚 染していてよろしくないときに、それに対して違和感を持つのであれば、KYこそが上等である。逆に、そのなかで気づかぬ振りして違和感を押し殺し、同化し ているほうがよろしくない。概して問題状況は多数派にこそあるもので。
某氏いわく、1980年代からの個性化教育はジャイロスコープ型の人間を育てるつもりであったのが、実際は レーダー型人間を育ててしまったとか。ある空気においてそれを読み取り、自立的に対応するのではなく、空気を察知するには敏感であるが、それに同化してし まう。要するに、自分がない。自分がない連中が、自分がある人をKYと称して苛める。本末転倒もいいとこだ。
自分がない連中は、社会において「やさしい関係」を求めていて、対立回避を最優先しているともいう。だか ら、妙な空気に違和感持つような奴は脅威の対象!として排除される。若者たちは社会が懐疑に満ちたものであり、大人文化に対抗できないから、そのような多 数派を構成するという分析らしい。分かったような分からぬ理屈だ。
こんなのは後追いの理屈である。いつの時代も社会は懐疑に満ちたものである。楽園などあるものか。大人文化 に対抗できないというのも甘ったれていて納得できない。常にそれは社会がはらんでいる矛盾である。「後生畏るべし」でなくてはいかんぞ。若い世代に行くほ ど社会改革の気風が強くなくてはあかんのです。
実は、日本人は、昔も今も事大主義であり、画一的であり、自己主張をきちんとできない(しない)のが多数派 である。要するに強いものに従順に、多数派から干されぬことばかりを願い、少々のことは我慢するという性癖が強い。しかし、それでは自分の心に鬱屈したも のが蓄積するので、どこかへ発散させたくなる。そこで生贄が必要になる。KYとは現代的「生贄の羊」ではないのか。
問題があっても問題を感じない方向へのみエネルギーを消費する。まったく問題意識がない輩が少なくない。思うに、KYとは、今後は危険を予知している人という尊称に転換するべきではあるまいかねえ。
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