HOME HALF TIME 心とからだの四方山話

心とからだの四方山話
第8回 医療訴訟と現代社会

近年医療上のトラブルによる医療訴訟が増加しつつあるように思われる。私が医師になった40数年前と比べれ ば、診断方法もまた治療方法も格段に進歩しており、その頃と比較して診断や治療過誤が多くなってきているようには感じられない。にもかかわらず、なぜか医 療訴訟は増加しつつある。

訴訟の理由は診断や治療上の過誤の有無に対してではなく、その過誤をひき起こすに至った過程、すなわち診療態度が問題視されているような気がしてならない。そうであれば、現代ほど心のこもった、信頼性の高い診療が求められている時代はないのかもしれない。

私が医師になって3年目ぐらいの春先頃に、大学病院(岡山大学)である血痰の続く患者さんを担当していたこ とがある。65歳ぐらいのこの男性は、愛媛県の田舎から入院されてきて、奥様が付き添っていた。入院後の胸部レントゲン写真で、右肺門部に大きい空洞を伴 う6×6センチぐらいの腫瘤陰影が認められ、肺真菌感染症と診断した。

奥様からは、毎日のように、「血痰が毎朝出ていますが、夫の病気は良くなるでしょうか?」との質問であっ た。「真菌(カビ)による感染症ですから必ず治ります」。私はそう信じていたし、答えもいつも同じであった。ある日「いつごろ退院できるでしょうか?」と 聞かれたことがある。「秋頃には退院できるでしょう」と私は答えておいた。しかし、期待もむなしく、入院後3カ月が過ぎても血痰の改善は見られず、その年 の9月初旬その患者さんは大量出血をきたし突然亡くなってしまった。

大学病院の病理担当の教授は、病歴とレントゲン写真から直ちに、「これは肺癌ですね」と言われた。病理解剖 の結果も肺癌であった。「申し訳ありません。私の未熟さゆえ、肺癌を肺真菌症と誤診していました」と私は素直に詫びて、深々と頭を下げた。「なにをおっ しゃいます。先生の誤診のおかげで、私ども夫婦は、いつか元気になって家に帰れるという明るい希望を持って入院生活を送ることができました。もし、最初か ら肺癌と診断されていたら、私どもの入院生活はさぞ暗いものになっていたでしょう」。

誤診を責めるつもりはありません、それよりも一生懸命治療していただいて有難うございました、という意思表 示であった。40年余が過ぎた今でも、あの時の笑みをたたえたお顔とお声をはっきりと思い出すことができる。そして、あの時の笑顔こそが私の臨床家として 歩むべき道を指し示してくれたように思えてならない。

Page Top