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第4回 罰《バチ》 |
かつての親たちは、「そんなことをすると神仏の罰が当たる」そういって子どもたちをしつけていた。「嘘いうと閻魔様に舌をぬかれるぞ」といって正直になれと教えた。罰の恐怖でパニックを起こさせようとしたわけだ。
しかし、小さいうちは、罰が怖くていうことを聞いていた子どもも、いつかは「神様なんかいないや。罰なんかウソだーイ」「そんなウソついている大人こそ、閻魔様から舌ぬかれるぞ」と生意気な口答えするような、いたずら坊主に成長する。
かつては大人になっても罰を信じるものが多かった。神罰など、迷信であると説いたのが、福沢諭吉たち啓蒙家であった。諭吉など神様のお札で尻を拭いて、罰が当たらないことを実践で示した。おかげで日本から迷信は大分なくなり、昔は精神病の大半を占めていた憑物(日本では狐憑き)の病気は、20世紀の中ごろには完全に消えうせた。
だが、啓蒙主義者が努力を怠ると、すぐに逆戻りする。罰で怖がらせて金儲けをする悪者が増える。この間も、先祖供養をしないと家族に不幸が起こるといって高い仏具を買わせる詐欺があった。最近も、同じような手口で高額な印鑑を買わせて、警察に逮捕された詐欺師たちがいる。
宗教を開いた人たちは道理を説いた哲学者であったが、時が経つと、頭の悪い弟子たちは、手っ取り早い罰で人を説得するようになった。宗教はこの2種類の人たちが混ざり合っているし、こころの中では宗教と迷信は紙一重の差で隣り合う。だから、敬虔な信者といわれる人が、霊感商法などに簡単にだまされるし、他方でいつも現実にある宗教がこれに絡む。「罰!そんなもの迷信だ。先祖供養?ぼくの先祖は供養しないと子孫を病気で苦しませるような人たちじゃない。かれらは《無償の行為でお前たちを見守る。線香などでおれたちの善意を買うな》。そういうよ」
そう答えられる人は霊感商法などには絶対に引っかからない。
三大宗教の教祖たちは、無償の行為の尊さを説いた。イエスは愛を説いたし、仏陀は慈悲を説いた。ムハンマドも、弱者、貧困を救うための喜捨を信者の義務だと説いた。人間大衆はそれから大分進歩したが、まだまだ教祖の教えは水準が高すぎる。そこで、罰の方が手っ取り早いという弟子が多いらしい。現状から考えると、迷信を梃子にして、罰で信心に入らせる手法はまだまだ続くだろう。迷信追放は教育の仕事であり続ける。
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