![]() |
第8回 鍋に土足で上がる |
某テレビ局の番組の中で、山形の芋煮会用の何千人分もの大鍋を作る工場の見学が行われ、その鍋の大きさを実感するために、中に入った。カメラは人間と鍋を比較する。後日、その番組の視聴者の一人から、手紙があった。食べ物を作る鍋の中に土足で上がるとはナニゴトゾ、という叱責であった。番組製作者は、「あのあときちんと洗って、《清潔》にしたから、心配ない」と弁解した。それについて意見を求められたぼくは、質問を返した。
《清潔》と《清浄》の違いがわかりますか。
分からないといわれたので、違いを説明した。
「昔、外来にくる患者さんに、朝一番の尿を採取して持ってきてもらうことがよくありました。見栄からか、綺麗なコップに入れてきた人に、検査が終わったあと、そのコップをよく洗って、消毒までして、もったいないから使ってください、と返したが、使ってくれなかった。《清潔》であるかもしれないが、《清浄》ではないと感じたのだろう。つまり尿で穢れたと感じた。土足で上がるというのも穢すイメージです。その綺麗なコップを診察室においておくと、知らない人たちはそれで水を飲んでいましたよ。《実は》と説明すると飲まなくなりましたけどね。ぼくですか、ぼくは平気で飲んでいましたよ」
《清潔》は文明的な感覚である。《清浄》は文化的な感覚といってよい。清浄なものは、いったん穢されると、洗っただけでは清浄にならない。清められなければならない。だが、信仰心を失った現代では、清めの儀式は意味を持たなくなった。お手洗いから出て手を洗うのは、清めているので、洗っているのではない。昔はお手洗いのことを《ご不浄》と呼んでいたことを思い出せばその感覚が分かるだろう。不潔恐怖と名づけられた神経症は、何度洗っても手が綺麗になった気がしない。それで百ぺんも手を洗ってしまう病気だが、学校で衛生教育の行われるまではなかった病気だ。
かつては神社にいくと、くりぬいた御影石の真ん中から水が吹き出して流れているところがあり、参拝の前には手を洗い、口をすすいだ。水に穢れを落とす力があると考えられていたからだ。
昔の手洗いの前にも、同じような石に水がためられていたものだ。そこにあまり清潔でない水がたまっていた。でも、清めには十分だったのだ。文化に理解のないものは、時々文化的な神経を逆なですることがある。
なださんの最新刊
「こころ医者講座」ちくま文庫より発売中です。
|
|
|























