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私たちのとりくみと考え
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平和教育
09年8月3日
戦争がなければ即「平和」であるといえるのだろうか?
ノルウェーのヨハン・ガルトゥングは「平和とは、暴力の不在または低減である」と定義し、その暴力には三つの形態があるとした。
・直接的暴力=戦争や地域紛争、殴る蹴る等の行為など文字通りの暴力。
・構造的暴力=社会のさまざまな状況でおこる抑圧や差別などの状態。また、資本家と搾取される労働者の関係や植民地支配など、支配と従属の関係が認められる状態。
・文化的暴力=直接的および構造的暴力が法的・制度的に認められ、意識に浸透している状態。
ポイントとなるのは構造的暴力だ。これは、学校の教室のなかでも起こりうる。直接的な殴る蹴るの行為がなかったとしても、いじめの問題などで、子どもたちの間 で支配と従属の関係ができてしまう場合等だ。また、教員が威圧的に子どもをコントロールしようとする場合もこれに含まれる。
家族制度において、いわゆる家父長の権限が強すぎる場合もあてはまる。虐待は直接的な暴力だが、家父長が家族を「支配するもの」と考えていることも構造的暴力にあたる。
そして、現在のいわゆる南北問題もこの構造のなかにある。
暴力に三つの形態があるように、平和にも三つの形態があるとされる。戦争がないことや、非核化など「直接的な平和」、憲法九条など制度に表される「構造的平和」、平和の意義が浸透する「文化的平和」だ。
これは「消極的平和」「積極的平和」とも表される。戦争など直接的な暴力がないことが「消極的平和」、さらに構造的な暴力がないことが「積極的平和」である。貧困や環境問題など、直接的な暴力ではないが人々の生活が脅かされている状態、それが解消されることを積極的平和と呼ぶわけだ。
構造的な暴力は幅広い。学校にも家にも存在しうるし、貧困や環境は地球規模での問題だ。それをなくすことが可能であるとはとても考えられないかもしれないが、それをめざしていくために平和教育が必要とされている。
構造的暴力を考えた時、「開発」と「平和」は、切り離せない問題だ。岩崎裕保さん(全国教研共同研究者、帝塚山学院大学)は、「さまざまな富が『南』から『北』に流入するだけでなく、『南』は負債返金をする—本当に与えているのは『南』であり、『北』は受け取ってばかりいる—というのが現実である。このパラドックスが続く限り、平和という課題の根底にある貧困は未解決のままになる」と著作のなかで述べている。開発教育とは、社会的公正という観点から地球規模の諸課題を考え、構造的暴力の解決を求め、積極的平和と共生社会をめざすためのものなのである。
岩崎さんが理事を務めるNPO法人開発教育協会から発行されている『市民学習実践ハンドブック・教室と世界をつなぐ参加型学習30』のなかには、開発教育の実践のヒントとなる事例が多く掲載されている。「時事問題を教室へ—アメリカのイラク攻撃」「美ら海に基地がやってくる」「憲法が、変わるかも」などは、直接的に平和教育につながるものだ。
「スポーツウェア産業から世界の相互依存性を学ぶ」「ケータイの一生」など、身近な生活に直結した題材もある。私たちの消費の裏側で何が起きているのかを学び、そのなかで自分に何ができるか、を考えるものだ。
「ケータイの一生」は、「私たちに身近なケータイ」「ケータイのできるまで」「ケータイのその後」「私たちにできること」の四つのテーマで構成されている。ケータイを生産するにあたっての原料をめぐる争奪戦や、その生産現場での労働・環境問題などが取り上げられ、ケータイとつながる人々や、その人たちの生活環境を想像する力、そこで起きている問題を知る力、その解決に向けて行動する力などが意識されたプログラムになっている。
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市民学習実践ハンドブック−教室と世界をつなぐ参加型学習30
(発行:開発教育協会)
各テーマは見開き中心でまとめられ、写真も多くわかりやすい。
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