ゆみさんのメンタル・スケッチ

第29回 オレンジ・ジュース

精神神経科医 労働衛生コンサルタント 牧由美子
2016年02月01日
第29回 オレンジ・ジュース

昨年の年末のことです。「バアバ(母)のことは任せてゆっくり行って来て」と娘に言われ、“体力作りを兼ねて歴史の街をスロージョギングする、そのうえ旧友とも会ってくる”という一人旅を果たしました。

夕闇せまる京都駅から、帰省と逆方向ではありましたが、念のため買っておいた新幹線の指定席につこうとしたときです。そこに、男性物の革のセカンドバックが腰かけていました。先客とはいえ、ここは私の席。遠慮がちなたたずまいから“悪いもの”には思えませんでしたが、程なくしてもどなたも取りに来ず、これは忘れ物君、と確信し車掌さんを呼びました。

事情を聞くと車掌さんは、「一緒にご確認ください」と中を開けました。そこには目もくらむような色のクレジットカードが何枚も、保険証や免許証も、現金も相当、その上、新大阪までの乗車券もありました。見るからにまじめそうな若い車掌さんは「届を出しますが、見つけたお客様の権利についてのご説明を…」と始めようとされたので、「そんな権利は全くいりませんから、それより今この人、新大阪の駅から外へ出られないで青ざめてます! パニックかも。一刻も早く新大阪に電話して!」と、研修医時代の救急当直のようにきびきびと指示を出しました。それから10分余りあと、先ほどの車掌さんが駆け戻り、「落とし主わかりました。お客様が匿名でとおっしゃったのを伝えました。大変感謝されていたそうです」と深々とお辞儀をされ去って行かれました。

それにしても、どういう人だったのかしら。呑気な太った中年以降の男性とみた。いや、実は周りに神経を配りすぎるタイプで、とことん疲れてしまっていたのかも。この場合はやせ体型か。外を見ると、いつの間にかすっかり日の落ちた車窓のガラスには、思い描こうとした人影ではなく、ほかならぬ「私」が映っていました。

そうです。大きなつづらに気を配り、大切な小さなつづらをふっと忘れてしまったのは実は数時間前の私でもあったのです。

列車の時刻より2時間前に混雑した京都駅に着いた私は、トランクを手荷物ロッカーに一時預けようとロッカーを探し料金を払おうとしたその時、乗車券・免許証・キャッシュカード・保険証・数万円入りの財布がないことに気づきました。戻って探すも、どこにもありません。パニックには(図々しさが身についているので)ならなかったのですが、すべての再発行、いやその前に、帰れない。など現実的な負荷の大きさを思い気持ちは一気に崖っぷちに立たされました(自分でそこに立ってしまったのだけれど、急性ストレス反応!)。私は阿保です、とつぶやきながら交番で紛失届を書いていると、奥から若い警官が私の財布をもって現れました。そう、どなたかが届けてくださったのです! お礼はいらないと、名も告げず立ち去られたとのこと。感謝してもしきれない気持ちで乗った新幹線で、今度は私があのセカンドバッグに遭遇したというわけです。

先ほどまではやや興奮していたためか、涙が出る気分ではなかったのですが、車窓に映った自分の顔を見て、どっと心の汗・涙が出て喉が渇きました。通り過ぎようとするワゴンに叫びました。「すみません。オレンジ・ジュース。いえ、ビールください!」


精神神経科医 労働衛生コンサルタント  牧由美子

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