ゆみさんのメンタル・スケッチ

第33回 月を見ていた

精神神経科医 労働衛生コンサルタント 牧由美子
2016年06月01日
第33回 月を見ていた

桜を散らした冷たい雨があがるのを待っていた客たちが次々に引き上げ、車もまばらになった和食レストランの駐車場。私は運転席に乗り込むと、ハンドルにもたれて首元をしばらく揉みながらつぶやきました。

「何してるの。お、遅い…」

数年前のその頃、(癌の進行は遅かったものの)積極的な治療はすでに出来なくなっていた父の歩みは遅く、母の杖がその日は特に重かったのは充分感じていたので、食事を済ませ二人に聞きました。「暗いし、車をとってきて玄関先へつける?」

「数台先のあの角まででしょう。ゆっくり歩いていきたい!」とのはっきりした返事でした。

それなのに会計を済ませると、私が先に車に戻って行ったのは、二人の言葉にもかかわらず気を利かせた孝行娘、というのではありません。その夜は、何かに追い立てられたような気がしていたので、そんな気持ちを打ち消したいときは小走りに走る癖がついていたからです。

数日前に父の主治医から「今後のことを家族とゆっくり相談にのれる時間が作れた」との連絡を受けて、私は午前中の勤務を終えると、実家へ帰り、母を乗せ大学病院へ急ぎました。主治医は数か月以内に入院、の選択肢を示されました。

私自身の勤務のほうは、午後に予約の患者さんが数人いらしたのですが、幸いなことに、皆病状が安定しておられたので、最近のサマリーとともに、同僚の(内科の)医師に次回までの処方を頼んで出てきました。「疑問あればいつでも電話してください」と携帯電話の振動を最大にして、腰のポケットに忍ばせました。(忌引きなら仕方ありませんが)急な休みを主治医に取られるのは、患者さんにとっては不安な材料にならないとも限りません。幸いなことに診療時間が過ぎるまで携帯は鳴らず、「問題は何もなかった」と同僚医師からのメールが届きました。

その頃、確かに職場、実家、病院と駆け回る日々でしたが、自分の選択でしたし、私としては一番気持ちの上で納得した、充実感もある日々のはずでした。そう遠くはない時期に病状に転機が訪れることがわかっている父との時間が、ゆっくり流れてくれることを願っている気持ちと裏腹に、時々今考えてもしょうがないこと達が頭の中を高速回転で駆け巡りいらいらすることさえありました。

そんな時は無理に落ち着かず、小走りしてみるのが、(おかしい話ですが)私の気持ちの対処法だったのです。

さて、車へ戻って待っていましたが、いつまでたっても父母は来ませんし、角が邪魔して父母の姿は見えません。「そうだったのね。ああは言ってもやっぱり、私が玄関先まで車を回すと期待されていたんだわ。でもそれならそうと言ってくれれば良かったのに。まったく人の心配を考えてないのかしら!」

駐車場を一回りして、車をつけると、はたして玄関先にたたずむ二人の影が見えました。

「どうしたのぉ!何かあったかと思うじゃあないの。」

すると全く気付かなかった、考えもしなかった静かな返事がありました。

「あのね。月があんまりきれいだから見ていたの。」

見上げるといつのまにか、雲の晴れ間から明るい大きな月が昇っていました

精神神経科医 労働衛生コンサルタント  牧由美子

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