ゆみさんのメンタル・スケッチ

第35回 金木犀

精神神経科医 労働衛生コンサルタント 牧由美子
2016年08月01日
第35回 金木犀

梅雨の晴れ間でした。

その日の昼休み、職場の近くにランチが安い美味しいお店があるから、という同僚達の誘いで、ビルの地下にある和食屋さんに行きました。

満員、大盛況の活気ある店内。畳も奥にあるけれどそこはいっぱいで、狭いカウンターに5人並びました。私は一番右端で、私の右隣にはこざっぱりとした身なりの初老の男性が一人、すでに定食を半分ほど食べ進んでおられました。

軽く会釈して隙間から座り、左隣の同僚とどちらともなくでた話題は、“熱くて寝苦しい”の話。「そうなのよね、私たちは日中窓も締め切って仕事に出てるから、家中に湿気がこもって変な匂いだよね。こういう晴れ間の日に布団干したいー」。

ここまで話すと、突然私の右隣の男性に叱られました。「あのね君達!変な匂いの話はこちらは食事中なんだから、止めなさい! 食事がまずくなる!」

一瞬何が起きたのか測りかねて同僚はひるみましたが、私はとっさに「それは大変失礼いたしました。ごめんなさい。では美しいものの話題に切り替えさせていただきます」と返しました。

どのみち、先日、母の女学校時代の同級生K子さん(どちらもアラウンド90)と連絡がとれ、2人だけの同窓会をするのを手伝った折の話を、この同僚にしようとは思っていたのです。

母たちの話は学徒動員などの聞くにも辛い話もあれば、美しいものもありました。その中で女学生たちから慕われていた一人のアメリカ人英語教師の話を同僚にしました。

「戦争が始まっても、その先生はご自身のお考えで学校に残られたそうなの。そして校庭の金木犀の木の横の庭師の小屋に居を移されたそう。外出はほとんどできなかったので、教師仲間やその妻たちが入れ替わりでお世話をしていたそう。女学生の母やK子さんは出入りができなかったけれど、秋になって、その先生が好きだった金木犀の香りが校舎まで届いた時に、『ああ、お元気なのだわ。良かった』と語り合ったそうよ。そこまで聞いて、私は溜めていた息を一気にふーとはき出したの。するとすかさずK子さんは『月日を経るといろいろ混ざってしまうけれど、私たちも若くて純粋な乙女の時代があって、金木犀の香りの思い出があるのは確か。由美子ちゃんに聞いてもらえて嬉しかった。そうそう、先生は長生きされてついこの間まで(御老人の“ついこの間”はどれくらいかは不明)ご存命だったのよね』と微笑みをかわした母とK子さんの瞳は乙女のものだったの」。

話は、地下の食堂に戻りますが、この金木犀の話をかいつまんで同僚に話していると、奥の座敷が空き、私たちは移動しました。大声で話していたわけではないので、ことの顛末がよく分からなかった他の同僚が「何か言われたの?大丈夫だった?」と聞きました。「まこと、笑ったり泣いたり、布団干したり、しまったり、人間は可愛いものであるって話しだけだから心配しないで」。

すると別の同僚が言いました。「えーっ聞こえたよ。食堂で意地張っちゃってさ、可愛いのはあなたよ」。すると私の話の相手だった同僚が「あそこで黙っちゃってはお互い気まずかったから、ナイス切り返しだよ。金木犀は良い香りだし」。「でもね、そもそも○△」と畳に上がった我々のおしゃべりは懲りずに昼休み中続きました。

精神神経科医 労働衛生コンサルタント  牧由美子

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