ゆみさんのメンタル・スケッチ

第7回 言葉の土俵

精神神経科医 労働衛生コンサルタント 牧由美子
2014年04月01日
第7回 言葉の土俵

桜の便りが待ち遠しい頃となりました。校庭のふきのとうも懐かしい笑顔を今年も見せてくれました。

さて、今日は突然ですが、あるご質問をさせて下さい。あなたなら、どう答えますか?

それでは、質問です。仮にあなたが、長い年月をかけて禅のような悟りを開くべく修行をしていたとしましょう。その修行も一段落終える頃、教えを受けていた尊敬する師匠が、片手に刀を持ってあなたの前に立ちこう尋ねました。

「さて、ここまで、辛い修行を頑張ってきたことを私はよくわかっている。そこで、君に尋ねるが、君は今までの修行で、悟りを開いたと言えるか? まだ、悟りは開いていないと思うか? もしも、これだけの修行をしても『悟りを開けていない』と言うのなら、君をこの刀で打つ! もしも『悟りを開いた』というのなら、そんな安易に悟りを開いたという君を、この刀で打つ!」

はらはらと桜の花びらが静かに息をのむあなたの肩に舞い落ちて、師匠の持つ刀は春の透き通った光にまぶしいほどに輝いて迫ってくるようです。

絶体絶命? あなたはどう答えますか?

この禅問答のようなものを、私は若いころアメリカの大学病院で研修をしていた時に、ある先生から投げかけられました。「うーん。格好つけるようですが、私なら、多分まだ到達点には達していません。さらに励みます、と言うと思います。」と答えました。

その先生は、「じゃあ打たれるんだね? 自分の問いを真剣に考えてくれてありがとう。正解はもちろん人生と同じで一つではない。けれどね、どちらと答えても打たれる状況なら、何も言葉で答えず、そこから身をひるがえして逃げる、というのもあるのじゃないか?」と言われました。

医者や教職員などの一つの傾向というか、むしろ好ましいまじめさの一つであるとは思いますが、相手の問うてきた質問に何とか答えようと時に強迫的にさえなって、答えられなかったときのストレスを生じてしまう。相手が投げかけてくれた質問の言葉の土俵にのって、言葉で答えなければ答えたことにならない、という呪縛にとらわれがんじがらめになることは確かにあります。

ノンバーバル(非言語)コミュニケーションは言葉で伝える割合よりも圧倒的に情報量が多いともいわれます。行動、ジェスチャー、表情、話す速度、こういったものすべてで、たとえ答えられない質問の時も、私はある意味答えていると思うと、また別の気の抜けなさが生じることもありますが、視点を変えて自分の考えが楽になることもあるのではないでしょうか?

実は、この先生は、腫瘍病棟の専門医でした。悪性腫瘍の告知・転移や治療法の選択援助などで、厳しい結果を知らせに病室に行かなくてはならない時は、いつも患者さんのカルテを壁際の机に置き、壁に向かって5分あるいは10分くらい目をつぶり腕組みをして考えておられました。当時からこの病院では検査結果や治療のデータなどはすべて隠すことなく患者さんに説明するのが基本でしたので、やはり内容の選択はするのでこのように悩んでおられるのか、ある日尋ねました。話す内容は決まっていても、話し方、話す順序、話すトーンなど相手によってベストを考えるのだ、という答えが返ってきました。

先ほどの禅問答のようなものが単に言葉のあや、としての笑い話に終わらなかったのは、こうした日常の先生の姿勢と相まって納得させてもらったからだと思います。今でもどうしても行き詰まった瞬間に、桜の下でひらりと身をかわし走り抜ける自分の姿を思い描くことにしています。

pagetop