点鐘 [連載コラム]

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点鐘(テンショウ)とは、航海者に30分毎に時を知らせる鐘の音のことです。帆船時代には4時間(八点鍾)単位に当直を組み、大海原へ乗り出しました。 この連載コラムでは、各界を代表する方々が、自由なテーマで時代の点鐘を鳴らします。

頭で考える前に

2009年10月01日
頭で考える前に
 本田由紀(東京大学大学院准教授)  2009年10月1日

ある媒体で、私は次のようなことを書いた。今のこの社会では、「有利な層」と「不利な層」との間の隔たりがますます大きくなり、「有利な層」は「不利な層」を容易に蔑み無視し憎悪するようになっている。しかし実際には、「有利な層」の「有利さ」は、日々肉体と精神をすり減らしながら社会の作動や自分の生を辛うじて保っている「不利な層」の存在の上に成立しているのであり、そうした認識を欠いて「不利な層」を侮蔑するならば、「有利な層」は自分が踏みつけにしてきた対象からの報いを免れないだろう。なぜなら、「すべてはつながっており、苦しみは伝播しあらゆる層へと広がるからだ」と。

しかしその後、私は仁平典宏さんという若く優秀な社会学者が書いた文章(仁平典宏「世代論を編み直すために」湯浅誠他編『若者と貧困』明石書店、2009年)を読んで、「つながり」を論拠とする自分の立論の弱さを思い知った。仁平さんは言う。社会のすべての人々がつながっている=相互依存しているがゆえに、他者の困難や苦痛は私の困難や苦痛をも生み出すからには、他者の困難を取り除く必要がある、という「情けは人のためならず」という発想は、大正時代から日本に存在していた。しかし、こうした相互依存=つながりという考え方は、社会に「迷惑」をかける存在への批判を容易にもたらす。その際、絶対的に「本人のせい」とみなされない対象は免責されうるが、少しでも「本人のせい」という要素が見出される場合には即座に非難が頭をもたげる。そして困難を抱える当事者自身が「自分のせいで社会に迷惑をかけている」と考えがちである、と。つまり、日本社会において、「つながり」は「迷惑」と表裏一体であり続けてきた、と仁平さんは述べている。

そのとき、他者とのつながりを思え、という私の主張には何の意味もない。しかしまた、こうした状況を打破するために仁平さんが繰り広げている議論にも、もどかしい感覚が残る。すなわち仁平さんは、第1に、どこまで「本人のせい」かは確定できないこと、第2に、原因と責任は異なる、すなわち本人に原因の一端があってもすべての者にまっとうな生活を保障する責任は社会全体にあること、という2つの理由から、「本人のせい」で社会に「迷惑」をかける存在への非難や切り捨てを論駁している。むろん、この2点はいずれも正しい。正しい、というのは、論理的にそうだ、ということである。

しかし、社会は論理的にのみ成り立っているのではない。苦しい他者に対して、頭で考える前にすっと差し伸べる手が出るような社会を思い描くのは、しょせん空想に過ぎないのか。でも、現実にそうした人々がいて、活発に動き始めているのを目にするとき、あながちそうでもないかもしれないと思える、それが救いである。

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