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点鐘 [連載コラム]

それぞれに、できることを


いつも慌ただしくしているので、時間と体力を節約するために、タクシーで移動することがある。たいていの場合はタクシーの運転手さんと会話をすることはないが、時折おもしろい経験をすることがある。
先日は、降り際に代金を払おうとしていると、年配の運転手さんが振り向きざまに私の顔を見て「お客さん、相当肩が凝っているでしょう」と言うので苦笑してうなずくと、「ちょっとお手をお借りします」とその人は言って、私の手の指のつけねをかなり強くくりくりと揉んだ。するとすっと肩が軽くなったので、私は驚いてお礼を言った。その人は、「長年こういう仕事をやってると、お客さんの顔を見ただけでわかるんですよ。指のマッサージも自己流です」と言って笑った。
また別の日、私は3つの会合に続けて参加した後、帰宅しようとタクシーに乗った。座って思わず溜息をつくと、運転手さんが「お疲れですか」と訊くので3つ会議があったこと言うと、「どんな会議ですか」と問われて、ごくあらましを話した。すると運転手さんは、「そういう場に出られるだけでもいいですね…ところで、今の日本はひどいと思いませんか」と言うので、私は若い人の就職状況が今年は特に悪くなっていることが大きな問題だと思うと言った。すると運転手さんは、やや唐突に「ベーシック・インカムってご存知ですか」と訊ねてきたので、私が「最近ときどき話題になってますね」と言うと、彼はある新聞のコラムでベーシック・インカムについて書かれていた内容を教えてくれた。私にはその試算が甘いものに思えたので、「ほんとにそんなことが可能なんでしょうか」と言うと、彼は信号で停まったときに、ごそごそと自分のカバンからクリアファイルを取り出した。そのファイルには先述のコラムのコピーがたくさん入っており、その中の1枚を私にくれて「疑問がおありでしたら、ここにコラムの担当者の連絡先も載ってますから、質問してみてください」と言った。さらにその運転手さんは、政治の腐敗について話を続けた。私が降りる場所に着いてからも、彼はメーターを止めて熱心に語り続け、その内容が面白かったので私は乗り出して聴いていた。最後に彼は、また別の新聞のコピーをくれて、走り去って行った。
このような経験をすると、私は軽い興奮を覚える。いろいろな人が、それぞれの持ち場で、それぞれのやり方で、通りすがりの他者や広い社会に対して、行動を起こしている。それに力づけられ奮い立たされて、自分の凝った肩を揉みながら、明日もまたできることをやっていこうと思うのだ。