点鐘 [連載コラム]

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点鐘(テンショウ)とは、航海者に30分毎に時を知らせる鐘の音のことです。帆船時代には4時間(八点鍾)単位に当直を組み、大海原へ乗り出しました。 この連載コラムでは、各界を代表する方々が、自由なテーマで時代の点鐘を鳴らします。

空――日本的方法

2010年03月01日
空―日本的方法
 伊藤宏一(千葉商科大学大学院教授)  2010年3月1日

戦後の日本は米国の文化や政治・経済の圧倒的な影響を受けてきたので、いつのまにか米国的方法が浸透してしまっている。戦いや競争に勝つためには、前へ前へ進み、力で相手をねじふせ圧倒するというのが、その方法の最たるものだろう。

しかし日本にはそれとは逆の戦い方・勝ち方があった。己を空しくして相手の力を引き出し、それを逆手にとって相手を倒すという方法だ。そのルーツは老子にある。老子は、物事の釣り合いを保っておのれの場所を失わずに他人に譲ることが、現世という劇の成功の秘訣であるとし、これを「虚」で説明する(『道徳経』第十六章)。物の真の本質は空虚にのみ存する。部屋の実質は屋根と壁で囲まれた空虚な空間に見出される。水差しの効用は、水を入れる空所にあるのであって、水差しの形や材質にあるのではない。「虚」は一切を含有するが故に万能である。虚においてのみ運動が可能になる。おのれを空しくして他人を自由に立ち入らせることのできる者は、どんな事態をも自由にすることができるだろう、と。

こうした老子の思想は剣術から相撲に至るまで、日本人の活動方法に大きな影響を与えてきた。柔術はその名を老子の『道徳経』の中の一句から借りている。柔術は無抵抗つまり虚によって、敵の力をひきだし使い果たさせ、一方、自己の力を温存して戦いに最後の勝利を得ようとする。

日本はこうした「空」「虚」の方法によって、漢字を取り入れ、そこから万葉仮名やひらがなを作りだした。明治にはわずか三十年で西洋文明を取り入れ、一等国になった。パンを取り入れ、まんじゅうのようなパンがほしいと考えてアンパンを作り、スパゲッティを取り入れて、自分たちにあった味がほしいと思って明太子スパゲッティを作った。サザンオールスターズの英語入りの歌詞も、この系列のなかにある。

ところで日本の空間は、空間を埋め尽くさず固定化せず、「空」を残し、「空」を生かそうとする。日本間は居間にも食卓にも寝室にもなるが、座布団や布団を箪笥にしまえば、「空」の空間となる。寿司屋のカウンターは、食事の時間が終われば、すべてきれいに拭いて空じ「空」に戻る。落語の「間」は、時間的な空であり、間合いがよければ話術は生きる。墨絵は大きな「空」の余白を作る。

前に押し出すのではなく、自分が空になって事物を取り込み、それを自分流の感性になじませて、元の事物そのものを空じてしまうというこのやり方は、古来、日本人にとって心地よい独自の方法論だったと思う。

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