点鐘 [連載コラム]

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点鐘(テンショウ)とは、航海者に30分毎に時を知らせる鐘の音のことです。帆船時代には4時間(八点鍾)単位に当直を組み、大海原へ乗り出しました。 この連載コラムでは、各界を代表する方々が、自由なテーマで時代の点鐘を鳴らします。

ラッコとJAPANS

2010年09月01日
ラッコとJAPANS
 伊藤宏一(千葉商科大学大学院教授)  2010年9月1日

昨年春、北海道の釧路川にラッコが迷い込んできて話題になった。とてもかわいいしぐさで、貝をかち割って食べる。rakkoは元来アイヌ語だった。それを日本語で「ラッコ」といい、中国に入って「臘虎」という中国語になったのだと思われる。漢字が中国から日本に入って「かな」や「カタカナ」ができたわけだが、アイヌ語が中国語になるのは興味深く、その独自の文化性は世界にキラリと光っている。

アイヌの人々は、かつては北海道だけでなく青森などにも住んでいた。北海道への本州の起点は、江戸時代には青森の十三湊(とさみなと)だったが、この「十」を「と」と読むのはアイヌ語の「トー」つまり湖から来ている。十和田湖の「十」も同じだ。

考えてみると、日本列島には北にアイヌ文化、東国にはナラ林文化にルーツをもつ文化、西国には照葉樹林文化にルーツをもつ文化、そして南には琉球王国の文化があった。この意味で日本は文化的に単一のJAPANではなく、多元的で多様なJAPANSだった。西国と東国の違いは、例えば階段の上り下りの仕方、昆布だしと鰹だし、味付けのりと浅草のり、うどんとそばなどですぐにわかる。この「4つの文化」が「重ね」「あわせ」られて、江戸時代には多彩な地方文化が開花した。そしてアイヌと対馬と長崎と琉球の「4つの口」でアジア大陸やヨーロッパとつながっていた。アイヌの人々は、ラッコやオットセイをとって、その皮を中国に売り、中国の鮮やかな衣服や宝飾品を得て山丹貿易をしていた。信仰の世界でも、神と仏は、浅草寺と浅草神社、東大寺と春日大社のように仲良く共存しており、江戸時代には儒教も、朱子学と陽明学共に入り、神仏に道徳的に重ねあわせられた。私はこうした多元的で多彩な日本が大好きで、誇らしく想う。

通貨も単一ではなく、東国の金と西国の銀、そして銅の三貨が重ねあわされて流通していた。物流は海であり幹線海路は日本海側で、例えば利尻昆布は、十三湊から秋田・新潟・能登半島・金沢・敦賀・温泉津を経て、下関から瀬戸内海を通り大阪へ、博多から対馬を経て朝鮮へ、薩摩から琉球を経て中国へと廻っていった。海は人々を融通無碍に繋いでいた。

「表日本」東京の中央政府に、文化も教育も経済も政治も一極集中し、神仏分離で仏を排除し、藩を県に、協同組織の家を家父長制にし、半島や島を孤立させ「内日本」を「裏日本」にしたのは、一途で過激な明治近代化の「のめり込み」のなせる技だった。こうしてJAPANSはJAPANになっていった。

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