点鐘 [連載コラム]

写真
点鐘(テンショウ)とは、航海者に30分毎に時を知らせる鐘の音のことです。帆船時代には4時間(八点鍾)単位に当直を組み、大海原へ乗り出しました。 この連載コラムでは、各界を代表する方々が、自由なテーマで時代の点鐘を鳴らします。

幸せの再定義

2010年12月01日
幸せの再定義
 伊藤宏一(千葉商科大学大学院教授)  2010年12月1日

欲求五段階説で有名な心理学者マズローは晩年、最も高次とされる自己実現の欲求の上に「コミュニティ発展の欲求」を置いたと言われている。生理的欲求に始まり、安全の欲求、帰属の欲求、承認の欲求そして自己実現に至る欲求五段階説は、戦後の我が国で有力な説として受け入れられてきた。それは、敗戦後の食糧難から始まり、アメリカベースの戦後復興と高度経済成長という時代の流れを現実的な背景としていた。食糧が確保され、治安が回復し、高度経済成長を背景に有名大学や有名会社への帰属意識に確信を持ち、その中で経済的豊かさをコアに自己実現していく歩みをマズローが説明していると受け止められた。それは「幸せは自己実現欲求の充足」という幸福感にぴったりだった。

しかし時代は大きく変わった。『平成二〇年度国民生活白書』を見ると、一九八一年からリーマン・ショック前の二〇〇五年まで、実質GDPは上昇したが、国民の生活満足度は基本的に低下していったことが明らかになっている。そしてGDPが日本よりずっと低い国でも、生活満足度の高い国はたくさんあることも指摘されている。国民総幸福量を追求するブータンはその典型だろう。ブータンの幸福の定義には、精神的豊かさや家族の活力・子どもとの密着度・方言などの文化・健康と教育などが含まれている。国民生活白書はまた、日本人の生活満足度の重要な柱は「きずな」であり、夫婦のきずな、家族のきずな、そして困った時の社会的きずななどをとても大切に思っていると分析している。

二〇〇八年、OECDは幸福度に関する指標を公開した。基本的幸福度の要素としてOECDは、平均寿命・大学教育を受けた割合と同時に、平均気温からの温度差・オゾン濃度・清潔な水の入手可能性・自然生態系の分断状況を挙げている。これらはマズローの分類でみれば、生理的欲求や安全の欲求などベイシックなレベルに位置づけられる問題だ。また経済的幸福度の要素として、一人当たり実質自然資本・エネルギー資源備蓄高・鉱物資源備蓄高・森林資源量・海洋水産資源残高など自然環境の指標が重要視されている。

こうして現在、幸せの再定義が必要な状況が生まれている。マズローの欲求五段階説で低く評価されていた生理的欲求や安全の欲求の充足の前提となる地球自然環境の保全と、マズローが晩年気づいた、自己実現を超えて人々を支えきずなを深めるコミュニティ発展の欲求が、幸せの再定義に関わる最重要問題だと感じるのは、私だけではないだろう。こうした意味で「欲求五段階説」の時代は終わっている。

pagetop