点鐘 [連載コラム]

写真
点鐘(テンショウ)とは、航海者に30分毎に時を知らせる鐘の音のことです。帆船時代には4時間(八点鍾)単位に当直を組み、大海原へ乗り出しました。 この連載コラムでは、各界を代表する方々が、自由なテーマで時代の点鐘を鳴らします。

自問し続ける姿を

2011年10月03日
自問し続ける姿を
 本田由紀(東京大学大学院教授)  2011年10月1日

8月の終わりに、ヨーロッパの某国で開催された国際学会に参加した。宿泊していたホテルの朝食のビュッフェで、同じ学会に参加されていた日本人の方とお話しする機会があった。その方はイギリスの大学の教員をされていて、学生の様子について次のように話された。「イギリスの初中等教育では、子どもの個性を伸ばすことをとても重視していて、ディシプリン(筆者注:規律訓練、つまり「しつけ」や繰り返し練習など)には重きを置いていないせいか、大学生になって何か大きな努力を要することや困難に直面すると、どうも打たれ弱いように思います。」

もちろんこれはこの方が持たれている印象であって、過度に一般化して考えてはならない。ただ、折しもロンドンでの若者の暴動が世界的に注目を集めていた時期でもあったことから、若い世代をどのように育て、彼らにどのような将来を用意することができるのかが、多くの社会で悩ましい課題となっているという実感を新たにしたのは確かだ。

ここから日本社会を顧みると、日本ではイギリスとは逆に、未だ学校教育現場でディシプリンがかなり強いように思う。90年代のいわゆる「個性化教育」の流れは、世紀の変わり目に広がった「学力低下」論争や「ゆとり教育」批判の風潮によってその後は退潮し、学習指導要領の改訂も経て再び「学力」重視への回帰が生じている。ただし、「学力」の考え方にも一定の変化が生じており、「PISA型学力」や「探究学習」といった、応用的な思考力に力点が置かれるようになりつつあることは確かだ。しかし、学校現場では依然として、ドリル学習をはじめ「正解」のある課題をいかに素早く解くことができるかという意味での「学力」観が支配的であるように思う。

こうした日本の学校教育におけるディシプリンの強さ、すなわち要求されたものに従えという圧力が、日本の若者や子どもが国際的に見て著しく自信や意欲が低いという事実の背景にあると考えられる。不安定さや不透明さがますます強まる世界的な情勢の中で、イギリスのようにディシプリンが希薄すぎても、また日本のようにディシプリンが強すぎても、いずれも子どもや若者を隘路に導く教育になってしまうことが危惧される。

言うまでもなく、何が望ましい教育であるかについて簡単な正解などない。教える立場の人々にとっても悩みは深まるばかりだろう。子どもや若者を目の前にしている年長者ができることは、彼らが粘り強くしなやかに生きてゆける大人になってゆくことを助けるために何が必要かを自問し続けることしかない。そのように自問し続ける姿を彼らに見せること自体が、ひとつの重要な教育となってくれるのではないだろうか。

pagetop