点鐘 [連載コラム]

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点鐘(テンショウ)とは、航海者に30分毎に時を知らせる鐘の音のことです。帆船時代には4時間(八点鍾)単位に当直を組み、大海原へ乗り出しました。 この連載コラムでは、各界を代表する方々が、自由なテーマで時代の点鐘を鳴らします。

スティーブのりんご

2011年12月01日
スティーブのりんご
 伊藤宏一(千葉商科大学大学院教授)  2011年12月1日

ニュートンはりんごが木から落ちるのをみて、万有引力の法則を閃いたという。りんごの落下の力は惑星に対する地球の引力と同じであり、自然は機械的な運動で説明可能となった。彼はケプラーやガリレオを統合してデカルトの夢だった法則を発見し、近代の実証主義と数学還元主義を構築した。物理的数値への一切の還元は、個別事象の質的差異も固有のアートや文化も排除することになる。単なる物体としてのりんごの認識は、今日のグローバル化や世界のフラット化の基礎的原理となっていった。

スティーブ・ジョブズは違っていた。彼はコンピュータを「中央集権の権化」「官僚的管理のツール」から「個人の表現や解放のシンボル」にしようとした。作った会社は「りんご」つまり「アップル」コンピュータだった。「僕は果食主義を実践してたし、りんご農園から帰ってきたところだったし。元気がよくて楽しそうな名前だし、怖い感じがしないのもよかった。アップルなら、コンピュータの語感が少し柔らかくなる。」ジョブズにとってりんごは命の糧であり、カリフォルニアのローカルな個性の刻印であり、美の対象だった。そして彼はアートする心を持ち、若い頃傾倒した禅の直観性とシンプルさがお気に入りだった。彼の結婚式では曹洞宗の千野弘文師が、木魚をたたき香をたき、お経をあげて祝福した。「日本の禅宗はすばらしく美的だと僕は思う。」シンプルの本質は「多いほどよい」ではなく「より少ないことはより豊かなこと(Less is more.)」であり、それは無駄を削ぎ落とす禅の精神でもあった。

「マイクロソフトの唯一の問題は特徴がないことだ。まったく味がない。これは些細なことではなく、彼らには独自のアイデアがあるとは思えず、製品にほどんとカルチャーが吹き込まれていないというほど大きな意味だ。」

「多くの人にとってデザインという単語が意味するのはほんの表面のことにすぎない。…私にとってデザインよりも深い意味を持つ言葉はない。…人間の創造のコアの部分、魂、そういう意味なんだ。」

デザインという人文科学的な価値がITを主導する発想、効率や利益よりも独自のいい製品を作ろうとする職人気質、ビジネスマシンではなく生活文化としてのシンプルなコンピュータ、これらがスティーブのりんごに凝縮されている。それは、21世紀が本質的に求めている世界に他ならない。

…合掌。

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