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点鐘 [連載コラム]

「にもかかわらず」精神


和魂漢才、和魂洋才という。和魂は漢才・洋才を学び取り巧に活用したのだろうか。仮に明治を漢才・洋才の画期とすれば、漢才を千三百年学んだ。漢字のごとき、実に素晴らしい。これなくして今の日本文化を語れない。洋才は百四十四年、短期急速である。漱石先生が、西洋の文明開化は内発的だが、わが国は外発的だ。皮相上滑りを戒めよ。懐疑の精神を失わぬように、と指摘されたのは卓見だった。
漢魂が漢才を生み、洋魂が洋才を生んだとすれば、漢才・洋才を学ぶには漢魂・洋魂を学ばねばならない。わが国には数多優れた漢学の歴史があり、漢魂の研究は深く高かった。果たして洋魂はいかがか。近代西欧の洋魂は古代ギリシア・ローマに刺激をうけ、ルネサンス・宗教改革を通して鍛えられた。その間ざっと七百年。個人主義が確立し、自由をこよなく追求する《社会的自我》が形成された。自由とは束縛からの自由だけではなく、自分のgenius(天分)発揚を求めて生き続ける(=自我)という自由主義が基盤になった。
古代ギリシアはユートピアではなかった。「この世に生まれないのがもっとも上等、生まれてしまったら少しでも早く生まれる前に戻ることだ」というような虚無思想が支配していた。にもかかわらず、彼らは日々の葛藤を通じて、「生まれないほうが上等という命題をとことん追求してやろうじゃないか」という精神に到達した。
中世西洋の人々はユートピアとしてのギリシアを学んだのではなく、酷薄・非情な社会において、《にもかかわらず》逞しく生きようとした先人の姿に強烈な示唆を得たのである。これがギリシア精神である。生きるのは個人である。《自我》が登場したから近代の幕が開いた。わが国においては、いまだ個人主義といえばジコチューというような理解をする向きが強い。
人間の《行動》は《主体(自我)》と《状況》の中から生まれる。ひたすら状況に合わせてちんまりと生きるか、状況を変えてやろうという主体を強化するか。状況が不具合であればあるほど、《にもかかわらず》精神が発揮されなければ世の中はよくならない。
洋魂なくして洋才なし。まだまだ学ぶべきことはたくさんある。