点鐘 [連載コラム]

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点鐘(テンショウ)とは、航海者に30分毎に時を知らせる鐘の音のことです。帆船時代には4時間(八点鍾)単位に当直を組み、大海原へ乗り出しました。 この連載コラムでは、各界を代表する方々が、自由なテーマで時代の点鐘を鳴らします。

「夢追う」道の周りに

2012年08月01日
「夢追う」道の周りに
 本田由紀(東京大学大学院教授)  2012年8月1日

先日、調査プロジェクトの一環で、ある若者にインタビューをする機会があった。その方は二五歳の男性で、事前に実施していた質問紙調査からは、彼が大学を中退した後に非正規の仕事を転々としてきたことが、すでに把握されていた。その経歴から、大学の挫折後に、さぞ苦しい思いをされてきたのではないかと勝手な想像をしていた。

しかし、インタビューの当日に私の目の前に現れたのは、落ち着きと自信を併せ持った、爽やかな青年だった。これまでどんなふうに生きてこられたのかを詳しくうかがう中で、今の彼をそうあらしめているのは何かが浮かび上がってきた。それは「合唱」だった。

彼は、北関東の高校を出て東京の私立大学に進学するが、大学での勉強には興味が持てず、エネルギーの大部分を注いでいたのは合唱部の活動だった。そこでリーダー的な役割を務めるようになるが、あまりにもその活動に専心し、責任を担いすぎたことから、そのプレッシャーを背負いきれなくなって、三年の時に大学そのものを中退するにいたる。一時期は実家で休養していたが、このままではいけないと感じて再び上京し、警備員のアルバイトを始める。しかしその仕事もいつまでも続けられるものではないと思うようになり、自分はいったい何をめざして生きていけばいいのかと考えた時、彼の頭に浮かんだのは、大学で打ち込んでいた合唱だった。もともと大学を辞めたのも、合唱がいやになったからではなく、逆に合唱が好きすぎたからだった。

そこで彼は、ボイストレーニングのスクールに通い始め、アルバイトもスクールと両立可能なものに変える。並行して、社会人が趣味で活動している合唱団に加わる。その合唱団のメンバーには、かなり高い社会的地位に就いている年配の男性が多く含まれており、その中で若い彼は可愛がられる。他のメンバーから紹介されて、カルチャースクールで合唱の指導を時々担当するようにもなる。合唱だけでなく、作曲も試みるようになる。そして最近、合唱に関わる仕事の契約社員の求人に応募し、採用されたばかりだ。

彼は明るい目で言う。「夢に向かって道を切り開いていきたい」、と。このような「夢追い」的な考え方は、あやういものとして否定的に評価されることも多い。しかし彼の場合、「合唱」という太い軸の周りに、豊かな人間関係や、仕事面でのステップアップの機会を紡いでいる。もちろん、彼のようなケースばかりではないだろう。でも、新規学卒一括採用で企業組織に入るというルートの外に、このような、本人にとって確かな手応えのある、多様なルートが分厚く広がってゆけばよいと思う。

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