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点鐘 [連載コラム]

読む側に求められる見識


若い友人が「新聞をどのように読むべきですか」と聞く。
複数紙を比較して読んでも、いずれかに必ず正解が書かれている保証はない。ジャーナルは日々の記録であるが、個人の日記のように「本日何も無し」と書いたのでは売れないから、ジャンルを問わず事件・事故的扱いが増え、はたまた「?」「!」を使いたがるみたいである。
事実報道というのは看板で、厳密には何が本当の事実なのかわからない。自分がその事実を知らねばならないという必然性もまた無い。記事の質が問われるが、その評価基準が存在するわけでもない。
日常感覚と記事の間に違和感がある。どんな記事にせよ、実は自分の日常感覚なるものが揺さぶりをかけられているのである。
かつて戦時中は戦争が日常であり、平和は相対的に異常であった。軍需工場で働いていた人々が広場で正午の玉音放送を聞いた。ややあって、何ごともなかったように工場へ作業に戻ったという話がある。これなど心理学的には、日常の慣性として片付くのかもしれないが、本当のところは、どう考えたらいいか、いかに行動すべきかが直ちには思いつかず無意識のうちに日常へ回帰したのであろう。
同様に新聞を読んだときの違和感は、煎じ詰めれば、事件・事故に限らず、問題の大きさに関わらず、どう考えるべきか、いかに行動すべきかが思いつかないことにありそうだ。中途半端で治まり具合が悪い。精神に非平衡状態が発生しているわけである。
非平衡状態が嫌ならば、自分とは関係がないと縁を切るべきか。そもそも普通のわれわれは新聞に載る行動をしていないのだから、大枚はたいて新聞を読まなければよろしい。関係がないにもかかわらず新聞を読むのは奇妙である。(ただし、これでは読み方にならない)。
いやいや実は「理解しえないもの・ことは支配できない」という焦燥感が湧いているのではないか。無関係に見える問題であっても、問題意識があって、問題を突き詰めて考えればなんらかの本質に接近するはずである。それを(無意識であっても)認識しているから、違和感を承知で新聞を読み続けるのかもしれない。
これを聞いた友人曰く「自分の見識が問われているってことですか」。