点鐘 [連載コラム]

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点鐘(テンショウ)とは、航海者に30分毎に時を知らせる鐘の音のことです。帆船時代には4時間(八点鍾)単位に当直を組み、大海原へ乗り出しました。 この連載コラムでは、各界を代表する方々が、自由なテーマで時代の点鐘を鳴らします。

丁寧に歴史を刻む気風

2013年10月02日
丁寧に歴史を刻む気風
 奥井禮喜(月刊ライフビジョン発行人)  2013年10月1日

例年六月に梅酒を仕込む。青梅一キログラム、氷砂糖五〇〇グラム、三五度焼酎一・八リットル。ストレートで飲む旨さを考えて砂糖は少な目、酒精の度数は高いほどよいのが当方流。年末に梅を取り出す。梅をいれたままだとアクが出る。後は熟成めざして暗室に保存する。期間は一五年以上。以前作った二〇年物を通人に飲ませたら、梅酒だと当てられず、「どこのポートワイン?」、思わず鼻が上を向いた。色は真紅、濃真紅になる。梅の酸味が消えて実に上等のワインになる。

酒博士・坂口謹一郎先生は「すべての酒は熟成にこそ真価がある」といわれた。まさにその通り、上等な和製老酒・和製ワインに化ける。数年前、群馬秋間梅園を訪れたドイツワイン協会の幹部が二〇年物梅酒を飲んで「何で、いかに造るのか?」。説明したが直ちには信じられない表情をされたのも愉快だった。

ある時某百貨店のワインフェアでひときわ目立つ年代物ワインがあり、勢いで買った。名バーテンと二人、いそいそコルクを抜き、バルーンに注いでいただく。あー、これは! 来し方、いかなる運命に翻弄されたか。揺られ過ぎて船酔いしたか、快適ならざる住処で暮らしたか。がっくりきた。以来、絶対にバーでしか飲まない決心をした。

酒に歴史あり、人に歴史あり、社会に歴史あり。完全な人間は存在せず、不完全な人間がさまざまに摩擦・葛藤を起こしつつ、日々歴史を刻んでいる。小学校卒業式で校長先生が「人生は旅だ」といわれた。むしろ森羅万象悉く変化してトラブルの集積だというにふさわしい。状況を変える主体性を確立せねばならない。

巷間、現実主義を振り回し、理想を軽視する気風が目立つ。理想なく現実対応を図ろうとするのは、所詮、しっかりした羅針盤なく右往左往するのと等しい。理想なくして現実主義なしだ。かくして、しっとりした文化は容易に形成されず、歴史は痛いものになりやすい。「すべての歴史は現代の歴史である」(クローチェ)。かつての痛史を直視して、丁寧に歴史を刻む気風(ethos)を育てたい。

最近若い友人に初めての赤ちゃんが誕生した。今年の梅酒を進呈する。赤ちゃんが成人するとき梅酒も熟成する。

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