点鐘 [連載コラム]

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点鐘(テンショウ)とは、航海者に30分毎に時を知らせる鐘の音のことです。帆船時代には4時間(八点鍾)単位に当直を組み、大海原へ乗り出しました。 この連載コラムでは、各界を代表する方々が、自由なテーマで時代の点鐘を鳴らします。

ハンナ・アーレントの「生活」概念

2013年11月01日
ハンナ・アーレントの「生活」概念
 伊藤宏一(千葉商科大学大学院教授)  2013年11月1日

この10月にハンナ・アーレントの映画が公開される。アーレントは、ハイデガーやヤスパースに学んだユダヤ系ドイツ人の哲学者で、シモーヌ・ヴェーユ、ボーヴォアールと並んで20世紀を代表する女性哲学者だ。

「生活とは衣食住のことだ」という経済主義的な近代的観念を根元から批判的に考えぬき、アーレントは人間の生活を「精神の生活」と「活動の生活」とに分ける。アーレントはカントから学んで、日々の生活で行われる人間の精神活動を、考えること(thinking)、志を立てること(willing)、判断すること(judging)とに分ける。自分でよく考え、志と目標を立てて実践し、様々な状況を的確に判断し評価している人は、よく生きている人ということになる。私はこれにもう一つ愛すること(loving)も付け加えたい。

考えてみると、戦後日本では、主に国と企業が思考し志を持ち、判断してきたので、人々はある意味で「精神の生活」の営みがあまりなかった。しかし1989年を歴史的な転機として状況が一変し、新たな生活概念を確立し、人々は自分で考え、志を立て、判断し、生活設計をたてていかなければならなくなった。

さてアーレントが語るもう一つの生活が「活動の生活」だ。それは労働と仕事と活動とに分かれる。人々は生活の糧を得る労働をし、自分を表現する執筆やアートなどの仕事をし、そして複数の人々の間の問題を解決する公的な活動に関わる。戦後日本の市民生活には、労働はあったが、仕事と活動はあまりなかった。「ワーク・ライフ・バランス」も「労働と余暇」も、アーレントの生活概念から見れば、「精神の生活」や「仕事」・「活動」が視野にない狭隘なコンセプトに留まっているということになる。リタイア後の生活では、労働の割合が減るが、その分、思考・意志といった「精神の生活」や「仕事」や、人々のためのボランティアやNPOの「活動」を豊かにできる可能性があるのだが、あまりそうなっていない。障がい者で、労働が十分にできなくとも、自分で思考し、自分を表現し、家族や人々を愛し、人々に関わる活動をしていれば、それは豊かな生活と言える。

最後に、今日の世界では、「精神の生活」と「活動の生活」の前提として、地球環境問題に示される「いのち」の尊さとその持続可能性も問われており、この「いのち」を土台に「生活」概念を見直す視点も大切だと思う。

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