点鐘 [連載コラム]

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点鐘(テンショウ)とは、航海者に30分毎に時を知らせる鐘の音のことです。帆船時代には4時間(八点鍾)単位に当直を組み、大海原へ乗り出しました。 この連載コラムでは、各界を代表する方々が、自由なテーマで時代の点鐘を鳴らします。

キャリア教育の空疎さ

2014年04月01日
キャリア教育の空疎さ
 本田由紀(東京大学大学院教授)  2014年4月1日

文部科学省は、2014年3月1日公開の実写映画「魔女の宅急便」とタイアップしてキャリア教育を推進することを、2月14日に発表した。同省ホームページには、「映画では、主人公が様々な体験を通して様々な人々と出会い、その助力を得つつ、困難を乗り越えて大きく成長していく姿が描かれており、キャリア教育の普及啓発の趣旨にふさわしい内容であることから、タイアップ企画を通じてキャリア教育の主旨を広く伝えていきたいと考えています」と記されている。タイアップ用のポスターには「はたらくこととか生きること。これからのわたしがみつけるもの。すすめよう。キャリア教育」とある。

ところで、同じ2014年3月に、もうひとつの映画が公開されている。それは「銀の匙」である。こちらの原作は北海道の農業高校を舞台とした漫画(少年サンデーに連載中、単行本は11巻まで既刊)であり、「マンガ大賞2012」を受賞するなど人気を博してテレビでアニメが放映されている。主人公は、学力競争や親の圧力から逃れるために農業高校に入学した少年である。彼が、農業高校内での飼育実習や部活動(馬術部)、文化祭などでの経験や友人関係を通して、時には厳しい社会の現実―愛着を持って育てた豚の屠殺や農家の経営の難しさなど―に触れ、自分を取り戻してゆく過程が、詳細にかつユーモアを交えて描かれている。何を隠そう、私はこの「銀の匙」の大ファンである。

さて、ここまで書いてくれば、読者諸氏には筆者が何を言いたいかもうおわかりだろう。そう、私は文部科学省に言いたい。「魔女の宅急便」とキャリア教育をタイアップするのならば、なぜ、「銀の匙」と職業教育もタイアップしないのか、と。もちろん、「銀の匙」という作品側からすれば、文部科学省とタイアップする必要など微塵もない。この、冒険も戦闘も一切登場しない穏やかで地味な漫画が、広範な読者に愛されていること自体が、その価値を明らかに物語っている。私が問いたいのは、文部科学省の姿勢の方なのだ。

近年の教育政策においても職業教育がまったく黙殺されてきたわけではない。それは常にキャリア教育と併記されて、付け足しのように言及されてきた。しかし、専門性や分野という側面をきれいに払拭して職業観・勤労観と基礎的・汎用的能力の形成をうたうキャリア教育がどれほど推進されても、特定の専門性に立脚して丹念な教育を行う職業教育の機能を代替することはできない。

ほうきで飛ぶ魔女というファンタジーとしかタイアップできないところに、キャリア教育というものの空疎さが表れている。そんな魔法のような夢や希望で若者をけむにまいてどうするのだ。「銀の匙」が、それを読む者に伝えてくる、動物の匂い、設備の使い方、身体の疲れ、そして淡い喜びといったリアルな諸々こそが、若者を成長させるのではないのか?

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