点鐘 [連載コラム]

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点鐘(テンショウ)とは、航海者に30分毎に時を知らせる鐘の音のことです。帆船時代には4時間(八点鍾)単位に当直を組み、大海原へ乗り出しました。 この連載コラムでは、各界を代表する方々が、自由なテーマで時代の点鐘を鳴らします。

コミュニケーションの哲学

2014年05月01日
コミュニケーションの哲学
奥井禮喜(月刊ライフビジョン発行人)  2014年5月1日

産業界で、コミュニケーションがよろしくない、悪い、という声が高まったのは一九九〇年代後半である。日本的バブルが崩壊すると成果主義が華々しく登場し、雇用削減が多発し、非正規社員が増加した。当然ながら働く人々にとっては、面白くなく、意気が上がらない事態であり、それが二〇年になろうとする。

わたしたちの勉強会でも当初は「こんな状態だからこそ気張って撥ね返そう」という意見が少なくなかったが、時間の経過につれてその気風が薄れ、あかん、いけませんという報告が支配するようになった。「連絡をすべてメールですませ、始業から終業まで全然会話しない人がいる」なんて調子である。「個人商店的に働くから、何かなければ話す必要がない」という分析がそれなりに説得力をもった。

しかし少し考えてみると、客観的情況とは別にもっと本質的問題があるに違いない。もともとコミュニケーション概念は外来輸入品である。わが国でこれが一般化するのは戦後である。

人間は社会なしには生きられない。人は自由の発現、自我の自由な発揮を希求するが、それは社会において発揮されねばならず、つまり社会的自我の発揮をめざさねばならない。自我の発揮は幼稚・未熟・単純な自己中心主義とは異なる。だから自我はすでにコミュニケーションを内包しているものである。

このように考えると、コミュニケーション不全という事情は、単に人間関係が円滑さを欠くというに止まらず、人間的成長が停滞あるいは後退しているのではあるまいか。「個人が育つ・社会が育つ」という枠組みを置けば、まさに社会(組織)が停滞・後退しているのである。

敗戦までは極端な国家主義において完璧な「縦社会」であった。絶対的権力に対してひたすら忠誠を尽くす。いわば忠誠競争が社会的規範であった。この間、たとえば「国益」なる言葉が大いに流行してきた。これ、冷静・慎重に扱わないと、縦社会の強化推進に通ずる。コミュニケーションの発育を妨害するのは経済的不都合のみならず、かつての精神状態への逆流という雰囲気もあるのではないか。

コミュニケーションの哲学(精神)を大切にしたいのである。

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