点鐘 [連載コラム]

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点鐘(テンショウ)とは、航海者に30分毎に時を知らせる鐘の音のことです。帆船時代には4時間(八点鍾)単位に当直を組み、大海原へ乗り出しました。 この連載コラムでは、各界を代表する方々が、自由なテーマで時代の点鐘を鳴らします。

私生活主義

2015年06月01日
私生活主義
 
 奥井禮喜(月刊ライフビジョン発行人)  2015年6月1日

二〇世紀後半から「人間らしさが、公共的・政治的生活から私生活のなかへ退いてしまった」とよく指摘される。人間は間違いなく社会的動物であり政治的動物なのだから、みんなが隠者になってしまったのではよろしくない。

一九六〇年代、組合青年部の会議などで、組合活動が活発にならないのも政治的無関心も、「マイホーム主義が問題だ」という意見が定番だった。ただし、家族主義ではなかった。そもそも若者は家中心の古臭い思想や生活様式にうんざりして都会をめざしたのでもあったから、私生活優先意識であったろう。

一方には、色濃く残る滅私奉公・封建主義を否定する気風が強かった。社会があって自分が在るのではなく、自分が社会を作っているという理屈が組合青年部辺りでは主流派である。いわば民主主義を推進するという気概であった。

一九八〇年前後には、装い新たに家族主義が登場する。教育パパが深夜まで子どもの宿題を手伝う。母親はいつまでも子どもを手元に置きたがる。男子は結婚すると妻を母親代わりに思っているみたい。家族主義ではなく、とくに男は家族に逃避しているじゃないか、自立しとるのか!と叱咤が飛んだ。

識者は、まず夫婦の婚姻自体に問題ありと喝破する。夫「I love You」、妻「Well, then?」ときて、夫が絶句する。なんのことはない、恰好つけているだけだ。夫婦ごっこ、家族ごっこしているだけじゃないのかという厳しいお言葉がぶつけられた。そこで、なんと「家族は死なねばならない」(D・クーパー)という過激な論調が飛び出したりもした。

私生活主義=家族主義ではないであろう。家族とはいえ所詮人は一人の存在である。家族主義を前提とすれば、今度は家族帝国主義になってしまう。これまた一時期、それなりに話題になった。理屈上、家族とはいえ、その恩愛が桎梏となることは十分以上にありうるわけだ。

そこで、私生活主義と置いてみる。まさに私のみ、私が好き勝手に生きたい主義であるとする。これ、権力に対しては十分に意味をもつ。ところで、昨今好き勝手に生きられる人は多くはない。自分も好き勝手に生きられないが、周囲をみれば他人もまた同じである。おまけに民主主義の行方が危惧される。

さあ、どうするか。私生活主義の真価は、人々の自由の伸張に貢献してこそ発揮される。私生活主義者は隠者とは一味も二味も違うはずである。

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