点鐘 [連載コラム]

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点鐘(テンショウ)とは、航海者に30分毎に時を知らせる鐘の音のことです。帆船時代には4時間(八点鍾)単位に当直を組み、大海原へ乗り出しました。 この連載コラムでは、各界を代表する方々が、自由なテーマで時代の点鐘を鳴らします。

わが国のデモクラシー

2015年09月01日
わが国のデモクラシー
 
 奥井禮喜(月刊ライフビジョン発行人)  2015年9月1日

たしか魯迅(1881?1936)が、「日本人は結論を急ぐ」と、どこかに書いていた。ところが1990年代に中国へ行くと、「日本の会社はどうして欧米のように早く意思決定しないのか」と疑問をぶつけられたものだ。この矛盾した側面について最近ひょいと気づいたような気がする。

そもそも直ちに結論が出るような問題は重要な論争ではない。甲論乙駁、容易に決定できないような問題だから、すったもんだやる意味がある。魯迅が指摘したのは、まず問題の取り扱い、その重要性について軽々しく論じやすいとしたのであろう。いわく一時期メディアが「決める政治」を呼号したように、なんでもかんでも早く決めろといわんばかりの態度である。思うにデモクラシーの本質について理解が不十分なのではあるまいか。

言うまでもなく、デモクラシーは自由と平等を総合することが大事である。単純に考えて、自由に突っ走れば平等がお留守になるし、平等を限りなく大きく扱えば不自由になる。つまり、デモクラシーは自由と平等の極めて微妙な均衡によって成り立っているわけである。

ところが結論を急ぐ手合いは、一直線で多数決論を持ち出す。少数は多数に従えと短絡してしまいやすい。具体的な問題を扱っていない場合には、多数は少数を無視してはならない。多数決原理は、少数派保護と結合せねばならないというのであるが、これがなかなか容易でないのであって、具体的問題に関して意思決定することになると、しばしばエイヤッとばかり蛮勇を奮ってしまう。

多数派が常に絶対的に正しいという理屈が成り立つのであれば、多数決を単純に数の問題として展開すればよろしいが、残念ながら、歴史的教訓によれば、多数派が少数派の見識に及ばないことが多い。たとえば科学技術の高いレベルの内容について知っているのは明らかに少数派である。だからといって少数派が常に正しいわけでもない。どこかで妥協せねばならない。そこで…。

ここに命題(正)がある。対して反命題(反)がある。正反を総合して、ステップアップした場合に両者の円満な妥協ができる理屈になる。この姿勢を構えて異論を議論してこそ、初めて全体としての意思決定に向かうことができる。このように考えると、わが国のデモクラシーはまだまだ精魂込めて鍛え上げられなければならないと思われるのだ。

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