熊本地震 教育復興ボランティア②

熊本地震とりくみニュース⑤
被災地支援・教育復興ボランティア活動 第1ターム参加者報告

 2016年7月22日

6月2日から、教育復興、避難所における子どもへの対応といった目的のために、独自にボランティア活動にとりくんでいます。6月2日から同6日の第1タームには、全国から24人が参加しました。参加者の声をお伝えします。

※益城町に隣接している熊本市内でも被害が大きかった東区の避難所6か所にわかれて運営ボランティアとして参加しました。避難所は、市の職員が1人で2交代24時間体制で、食事の配給、生活環境の整備、夜間の見回りなど行っていました。避難所に、新潟市から「避難所における2次災害(病気・ケガ・事故)を防ぐために」①衛生面の徹底管理(トイレ・ごみ等)、②声掛け(高齢者や子どもずれの方など、遠慮して声を出せずにいることが多い)③活気ある避難所づくり(大きな声であいさつするだけで空気が変わる)のメッセージがあり、これを参考に私たちは活動することができました!!ありがとうございます!あいさつ、声掛けすることで、子どもたちと遊び、そしてその周りの大人の方々とも交流でき、「戦争も体験し何とか立ち直り豊かな暮らしをしていたのに、こんなことになって…」「家は大丈夫だったけど、不安でひとりではいられない」などのお話をきくことができました。あっという間に時間がたち名残惜しい気持ちのままでいます。もっと被災された方々の声に耳を傾けることが大切なことだと思います。

※報道されていることよりも、より自分事として感じるために、何か役に立つためにと思い、2つ返事で参加しました。現地の先生方や区役所の方は、被災されながらも避難所を運営されています。そのような状況だから避難者が避難所運営者に施してもらうことに遠慮しがちになると聞きました。「わざわざ北海道から?」と思うかもしれませんが、遠くから行くからこそ被災者さんたちが遠慮せず頼りにしてくれました。現地の方々も、ボランティアに行った私も、会話をすることで互いに元気になっていきました。元気な熊本の1日も早い復興を願っています。

※週末は避難所で生活をする子どもが多く、できるだけ一緒に遊んだりするようにしていました。幸いなことに秋津小学校避難所は、体育館後方にスペースがあり、子どもたちが比較的自由に活動することができました。子どもが笑顔を見せてくれたことはもちろんですが、子どもたちの楽しそうな姿を見た、他の避難者の方々も笑顔になってくれたことで、少しでもストレスの解消になったのかなと思います。教育関係者である私たちだから見えること、できることがあると思います。その一翼を担うことができ、充実した日々でした。

※震災直後は、多くのマスメディアが熊本の状況を取り上げていました。しかし、この2カ月間で、世の中の様々なニュースに「熊本の今」がかき消されていることが現地に行ってよくわかりました。避難所にいる方々は、今なお、生活基盤の確立がままならない状態です。子どもたちも一見元気そうに見えますが、怒ったり甘えたり泣いたりという感情の起伏が震災前よりも激しいそうです。避難所を運営している市役所の方も被災者です。みんなぎりぎりのところで一日を過ごしています。避難所の衛生管理、食事の準備、子どもたちの遊び相手などを行いましたが、被災者のみなさんの力になっていたら嬉しいです。「復興」はまだまだです。私たちはこれからも積極的な支援を継続することが必要です。

※泉ヶ丘小学校体育館の避難所で活動しました。6月4日、熊本市職員より「2日後から体育館のステージ側半分を学校が使用できるようにしたい」旨が伝えられました。これを受け、体育館後ろ半分への避難者の場所移動、使用済みの毛布や畳などの移動、体育用マットの倉庫への収納、ステージ側半分のフロア掃除・水拭き等、教育活動再開に向けての準備を行いました。また、避難者6人が自宅に戻ることになり、使用していた物品の搬出を手伝いました。5日には、自宅に戻られた方が使用していた段ボール製簡易ベッド(支援物資で送られてきたもの)のガムテープを丁寧にはがし、再利用できるよう種類ごとにまとめ、保管しました。それから、これまで食事は各自の布団の上で食べていたのですが、食事や団らんの場として使用できるスペース(食堂)をつくり、この日の夕食より使用できるようにしました。

また、熊本市立東野中学校も案内していただきました。東野中学校は、校舎全体が20cm沈み、普通教室が使えないため、体育館を間仕切りして授業を行っていました。校舎や教室の被害は大きく、その状況を見て、「今回の地震がもし子どもたちが学校にいる時間に起きていたら、果たして教職員や子どもたちは冷静な行動をとり避難できただろうか。」と考えさせられました。教職員として、災害時の対応を改めて一から考え直す機会となりました。

※派遣された東区泉ヶ丘小学校では、市役所の職員が1人、避難所となっている体育館に交代で勤務され、その補佐ということで、援助物資の数量点検や、フロアの片付け、清掃等が主な活動となりました。最終日、地元の方が益城町の実態を見て欲しいと案内してくださったのですが、市街地との被害の違いに愕然としました。地域によって被害状況が大きく異なり、被災者の一人ひとりにきめ細かな対応が迫られるこれからが大変であり、ボランティアもまだまだ必要であることを実感した5日間でした。

※6月2日時点で、学校は再開しているものの体育館は未だ避難所として運営されています。学校と避難所という二足の草鞋と避難所にいる子どもたちの様子が気になりながらのボランティアとなりました。泉ヶ丘小学校の体育館は、とてもきれいでした。体育館に入ると、ロビーのような広い空間があり、そこに食料や日用品、電子レンジや炊飯器などが置かれたスペースがありました。流し台やミーティングルーム(和室)、シャワーなど、設備面も整っている様子でしたが、震災当時は混乱で、有効なスペース活用もできていない状態だったそうです。また、ステージ上や体育倉庫には、全国から届いた支援物資が数多く置かれていました。9時半の消灯後の見回りなど防犯対策も重要なものでした。ボランティア中も余震があり、地鳴りのような「ゴゴゴゴゴ・・・」という音の後にぐらぐらと揺れることが何度もありました。

避難所には、1組の家族がいられました。お子さんが4人おられて、一日目からその子たちと外でブランコをしたり、夜は室内で将棋やオセロ、ダイヤモンドゲームをしたり、宿題を一緒にしたりして過ごしました。自分から地震のことを色々語ってくれましたが、余震が来ると「ちょっと怖い・・・」と、未だそのときの記憶が色濃く残っているようでした。一番下のお子さんは、保育園に通う4歳の男の子でしたが、夜中お母さんに抱っこされて泣いているのが印象的でした。上のお子さん3人は小学生だったため、朝体育館で準備をし、パンや牛乳を食べると学校・教室へと登校していました。

※避難されている方の数も以前よりは減ってきているとのことでしたが、家が倒壊の危険があり帰れない人、未だに続く地震の恐怖に怯え帰れない人もいました。お話をさせていただく中で、「寝ていると天井が落ちてきそうで今でも怖い」「何時また大きな地震が来るかビクビクしている」という話を伺いました。運営をされている役所の方も少ない人数で対応しており、まだまだボランティアの必要性を感じました。様々な方との出会いもあり、貴重な経験でした。引き続き、支援活動にとりくんでいきます。

※私たちには何ができるのでしょう。それは被災地を気に掛けることではないでしょうか。被災された皆さんとは同じ気持ちにはなれない。しかし、心を寄り添わせることはできます。今回のボランティアで、少なくとも長嶺小に避難されていた方々と私は顔見知りになりました。被災地の先に顔が見えるようになったのです。そうすることで、私は具体的に被災地のことを考えるようになりました。余震の速報が入れば「あの人、大丈夫かな」と心配し、仮設住宅入居の報道を見れば「皆さんも早く住むところが見つかるといいな」と思い浮かべることが出来ます。このように心の距離が縮まれば、被災地への関心につながり、それは長期的な支援の行動に結びついていくのだと私は思います。

※西原中学校の体育館には最初は500人程避難者がいたが、半分ぐらいになっていた。それでも隣との間は1メートル以内。残りの半分のスペースでバレーボール部とバスケットボール部の練習が始まることになり、夕方6時からだった夕食時間も部活動が済んでからの7時を過ぎてからに変わる。それでも、おおらかに受け止める避難者の皆さん。このまま地震がおさまり、倒壊した家が元通りになって早く帰れることを祈るしかない。今夜も寝ている隣の人を目覚めさせまいと気遣いながら、腰をさすり、ゆっくりとトイレにいくおじいさん。早く元の生活ができるようになってほしい。

※活動を通じて感じたのは、「被災者の受けた傷は、被害の大きさでは計れない」ということである。今回、熊本に入って、全壊・半壊の建物やデコボコになった道路を実際に見て絶句した。もちろん、自宅が倒壊した人の胸中は想像もつかないほど辛いと思う。けれども、たとえ建物の被害が小さくても、被災者の辛さは何も変わらないと思う。「地震で人生が変わってしまった。」と、避難所の方が呟いていた。この言葉を、全ての被災者の思いとして胸に刻み、周りの人へ伝えて行きたいと思った。

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