熊本地震 教育復興ボランティア⑥

熊本地震とりくみニュース⑨
被災地支援・教育復興ボランティア活動 第5ターム参加者報告

 2016年10月3日



6月2日から、教育復興、避難所における子どもへの対応といった目的のために、独自にボランティア活動にとりくんでいます。6月18日から同22日の第5タームには、全国から22人が参加しました。参加者の声をお伝えします。

※私は、熊本市立西原中学校で活動を行いました(25〜40人の方が避難)。市職員等の指示の下、必要に応じて求められる仕事をできる限り行いました。その中で被災者の方々と交流し、2か月間の避難生活の中で困難を乗り越えられてきた避難所には、多少疲れはあるものの、家族のような温かな雰囲気がありました。活動に参加した私たちにも明るく、気丈に接して頂き、気遣いや感謝の言葉まで頂きました。

今回の活動で出逢った熊本の方達の人間味にふれ、熊本の底力を感じることができました。これからの熊本復興に向けて、私も微力ながらお手伝いしていきたいなと思います。

※私が社会科の教員になるきっかけを与えてくれたのが熊本城です。だから、熊本震災ボランティアの話が来た時、私はすぐに参加しました。被災地では、避難されていた方々の話を聞くことによって、少しでも気持ち的に癒されることができたらと思い、積極的にコミュニケーションを取ることを心がけました。熊本での短い4日間で何ができたのか、今でもよく分かりません。ただ、お別れする最後の日に、被災者の方々が涙ぐんでいる姿を見たとき、何かお手伝いはできたのかなと感じました。今後も微力ではあるけれど、熊本復興に向けてサポートできたらと考えています。

※熊本地震から2か月も過ぎた6月中旬に、熊本市内の西原中学校体育館に開設されたままの避難所で運営ボランティアとして4日間活動しました。現地の状況の詳細が分からないままに参加したので、混乱や多忙を予想していましたが、避難所の整然とし自治が行き届いている様子に驚きました。そこではしっかりとしたコミュニティが形成されており、被災されてから帰宅できない期間がいかに長期にわたるのかということを、逆に痛感させられました。

日中は仕事や自宅を片付けに行く方が多く、避難所に残られている方は少数でした。度々起こる余震の中、自宅ではない学校の体育館という状況では、夜落ち着いて深い眠りにつくというのは難しいのでしょう。昼間の避難所では、うつらうつらと眠りにつく方が多く、疲労の蓄積を感じました。静かに過ごされる方がほとんどなので、そっと掃除や片付けをしたり、物資の整理をしたりなどしていました。地震後の片付けのような大仕事ではありませんが、より過ごしやすくするお手伝いは必要ですし、避難所での生活を疑似体験するという意味でも、避難所運営のボランティア活動は有効かもしれないと感じました。

今回、避難所運営に当たられていた市役所職員の方々が、避難者の方のさまざまな声に耳を傾け、その不安に寄り添ってお話なさったり、手続きなどを調べてくださったりという対応に心打たれました。自然災害は、いつどこで起こるか分かりません。誰しも被災する可能性はあります。今回のボランティアに参加して、非常時にどう行政が支援するのかも大切ですが、自分たちでコミュニティを形成・運営していくことはより重要だと考えさせられました。被災された方々の非日常が1日も早く終わって日常に戻られることを切に願い、今ここでできる支援を考え実践していきたいと思います。

※大学4年生の時、阪神・淡路大震災が発生し、災害ボランティアに参加できなかったという記憶が熊本災害ボランティア参加へと駆り立てた。

地震から1か月半経過している避難所は、混乱期を終え、安定期に入り、避難された方々は各種の手続き、被災した家の整備など今後の生活への準備に取り掛かっていた。その中で私たちは、食事の準備、支援物資の搬入、清掃などに当たった。

未だにブルーシートで覆われた家々が点在する熊本。今回のボランティアが少しでも支援になればと思うと同時に、被災した熊本の復興を心よりお祈り申し上げます。

※児童数約900人の規模の小学校。体育館フロアの半分が避難所になっている。休み時間毎に避難所の様子を気にしながら行き来する子どもたちに、避難者の方は挨拶をしたり話しかけたりしている。5〜6人の男の子が、自慢げに校歌を歌って聴かせてくれる場面にも出会えた。「子どもの声が聞こえると安心する。避難所から出たら一人になると思うと、寂しい気持ちになるの。」そうつぶやかれる避難者の方がいた。しかし一方で、「子どもの声は苦手。」という方もみえる。「早く仕事を見つけたいけれど、なかなか見つからない。だからイライラしてしまって。」とその方は言う。避難者の方のうち、多かったのは一人暮らしの年配の女性、または金銭的に余裕がない、持病を抱えて新しい生活をつくり出すこと-が困難な方たちだった。長い避難生活や将来への不安が、弱い立場におかれた方たちの心をすり減らしていく。

「地震のことはあまり言いたくないかもしれない」そう思っていたが、避難者や職員の方から多くの話を聞いた。続く余震の上に豪雨も重なり、さらなる不安を感じている人もいた。そんな中、「話を聴く」ことはとても大切だと感じた。避難されている方に対してはもちろん、そこで業務に当たっている区の職員の方に対しても。

私たちは「復興」と一括りに言うが、「復興」の中身は一人ひとり違う。話を聞いて、そんな当たり前のことを改めて感じた。そして、その対応をする側のことも考えると「復興」の大変さ・重さを感じた。区の職員の方は、震災関連の手続きが多いため夜勤後そのまま出勤する。体は大丈夫だろうかと心配になった。「米などは家にあったが水がなく、どうにもならなかった」「避難者が体育館に入りきらず教室も使った」「とにかくトイレが大変」「学校のトイレは洋式ではないから足の悪い方が使えない」「備蓄の毛布が少なかった」「雨水を貯めるタンクがあれば」等々、対応に困ったことなどを聞いた。また、「当初は、職員に詰め寄る方もいて身の危険を感じた」とも言っていた。それを聞いて、一人ひとりが確実に備えをしておくことは、自分を守るというだけでなく、お互いがお互いを守ることにもなるのかもしれないと思った。避難者や区の職員が語っていた問題は、恐らく今までの震災でも挙がっていた声なのではないだろうか。支援し続けること、そして教訓を生かし一人ひとりが備えること、それが自分たちにできることだと感じた。

※私たちがボランティア活動に入った第5タームは、本震から2か月余りが経過した段階であり、泉ヶ丘小学校体育館に設けられた避難所は、地震直後の状況からは随分少ない約15人の避難者のみとなっていた。しかし、2か月も自宅を離れ体育館で不自由な生活を過ごされてきた避難者の方々に対し大変心苦しさを感じたとともに、その分、自分たちにできることを精一杯やろうと努めた日々であった。

私たち日勤班は、朝のラジオ体操をした後は、清掃活動に励むのが午前中の主な活動であり、集団感染を防ぐため、トイレをはじめ、あらゆるところを塩素で除菌、消毒をした。このような感染予防を徹底して行っていたのは、衛生状態を保つ必要がある避難所において一番重要なことだと教えられた。また、午後は、避難物資の仕分けや整理、運搬などを主に行った。体育館ステージに山積みされた全国からの善意で届けられた物資の多さにしても、避難者を支える市職員、ボランティアの方々などの献身的な働きぶりにしても、人の温かさにも触れられた5日間であった。

大変貴重な経験ができたとともに、まだまだ被災地の復興・復旧はこれからであり、今後も私たちにできる様々な支援活動にとりくんでいきたいと強く思った。

※東日本大震災時は釜石高校が避難所になり、体育館で数日間過ごした。釜石では全国のボランティアから多くの支援を受けた。また、私は熊本城の一口城主である。思わず「そうだ、熊本に行こう」などとどこかで聞いたようなフレーズが頭に浮かび、ボランティア参加を申し込み、1週間の旅に出た。

仕事内容は、避難所のトイレ等の掃除・食事の準備・ゴミ処理・子どもや高齢者の相手などだ。これを熊本市職員1人で行うが、日勤と夜勤に分かれて2交代制で手伝った。避難所の秋津小学校の避難者は約20人、7家族程度に縮小していた。ただし、高齢者と子どもが多く、自治組織はできず、手伝いは期待できない。それでも、子どもたちは明るい。災害も行事のように変えてしまう天真爛漫さと、周りを元気にさせる活力を持っていた。家屋や電柱は壊れても、人の心は簡単には倒れないことを改めて感じた。ボランティアされた方々、ご苦労様でした。がまだせ!熊本。

※私が熊本ボランティアに参加して感じたことは、①東日本大震災の時と同じように避難所の閉鎖までにはかなり時間がかかること。②熊本県は校庭に仮設住宅を作る気配がないこと。(岩手県の沿岸部には本当に場所がなかった)③益城町で亡くなった17人の方の中には圧死による即死がかなりあっただろうということ。④小さな子どもたちにはどこに行っても心洗われること等です。

活動中には地震が数回あり、また、50年に一度という豪雨に見舞われ、熊本がなぜこんなに苦しい目に遭うのかと思いました。日本は自然災害からは逃れられない。原発から再生可能エネルギーへの転換を急ぐべきだと深く思った次第です。ありがとうございました。

※私は東日本大震災で、数々の惨状を見てきた。人の生き死にを見てきたからこそ、生きている自分がやるべきことが分かる。その気持ちは、まだ余震が続く被災地熊本へと向かう力となった。

熊本は2001年インターハイの想い出の地である。あの時見た雄壮な熊本城はどうなっているのか?熊本に着いた私は真っ先に城に向かった。一部の石垣や塀は無残にも崩れ、城内へは立ち入り禁止の規制線が張られていた。城門から入城することができないまま、城を周回し、二の丸付近からやっと天守を拝むに至った。そこから見た天守や櫓は、15年前と同じ姿で、雄壮にそびえ立っていた。屋根の瓦もほとんど落ち、傷つきながらも威厳を保ち、熊本の人たちに勇気を与えていたのである。

その天守は、あれだけの巨大な津波とがれきを受止めながらも、シンボルであるマリンブルーの屋根を、生き残った我々に見せ続けてくれた旧高田高校の校舎を回想させた。

※私は、東日本大震災時は岩手県外で働いていて、被災地の状況はテレビやインターネットでしか見たことがなかった。今回の熊本ボランティアでは、復興支援の手助けを行うのと同時に、被災地の実情を目と肌で感じ、地震の怖さ、防災の重要性を自分自身に再認識させることを念頭に置きながら参加した。

避難所の市職員、避難者との交流の中で「これからの見通しが立たないことが1番の不安。」という言葉が印象に残った。先が見えない不安、いつ震災前の生活に戻れるかわからない不安、身体以上に心が疲弊しているのでは、と感じた。

これからも、被災地の実情、要望に沿いながら、1日も早い復興に向けて継続した支援を行っていきたい。

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