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熊本地震とりくみニュース⑩ 被災地支援・教育復興ボランティア活動 第6ターム参加者報告

2016/10/04

熊本地震とりくみニュース⑩
被災地支援・教育復興ボランティア活動 第6ターム参加者報告

 2016年10月3日


6月2日から、教育復興、避難所における子どもへの対応といった目的のために、独自にボランティア活動にとりくんでいます。6月22日から同26日の第6タームには、全国から25人が参加しました。参加者の声をお伝えします。

※発災から2か月が過ぎた避難所は、淡々と時間が流れていた。40人ほどの方々が腰くらいの高さの段ボールで仕切った場所で過ごしていた。蒸し暑いので高い仕切りは使えないそうだ。

私たちの仕事は、子どもたちと過ごすことが中心だった。はじめは遠巻きに見ていた子どもたちだが、ボランティア仲間が現地で購入したバドミントンをきっかけに距離が縮まっていった。叩いたりきつい言葉を投げかけたりしてきた子どもたちだが、次第に優しい言葉で会話し、接するようになった。子どもたちが思いの外たくさんいるにも関わらず、静まり返っている避難所の中。みんな我慢しているのだ。子どもたちも甘えたくて仕方ないのだ。帰りのタクシーを走って追いかける子どもたちの姿に胸が熱くなった。

今、あの子どもたちはどうしているのだろう。熊本の被災地に暮らす人々は多くのことに耐えながら日常を取り戻そうとしている。被害の大きさを比べるのではなく、そこに生きる人々がどんな思いで暮らしているかに思いをはせることが何より大切であることを知った活動であった。

※避難所の方々は、子どもも大人も、私たちを温かく迎えてくれました。毎日の生活やこれからの生活に対して大きなストレスを抱えている皆さんが、広い心でいられるのは、お互いを思い合っている関係だからだと思いました。地区の民生委員の方は、毎日避難所に顔を出して、話を聞いたり手伝ったりしていました。日頃から地域がつながっていることは、本当に大切だと改めて感じました。更に、大変なときに支え合える環境を作るには、やはり学校は大きな役割を担っています。地域のコーディネーターとして、学校ができることも考えていくと、もっと良い教育ができていくのではないかと思いました。

※熊本市東区にある泉ヶ丘小学校の避難所を担当しました。2人ずつ、日勤・夜勤を分担し24時間体制で活動しました。

1日目に結団式を行い、私たち夜勤班は避難所へ移動し、業務開始です。基本的には熊本市の職員の指示に基づいて活動しました。日程は19:30に日勤と交代し、21:30消灯。1時〜5時、交替で仮眠し、6:30に点灯します。8:30頃になると日勤班が来て交替し、夜勤班は1時間程かけてベースキャンプに戻ります。

泉ヶ丘小学校避難所での主な活動内容は、夕食・朝食用物資等の配給・管理、避難所の巡回・点灯・消灯、夜間の受付を交替で行うことでした。当初は、被災跡の視察や炊き出しのお手伝いなどを想像していました。夜勤の業務で一番お役に立てたのかなと思うことは、熊本市の職員と夜間の受付を交替ですることです。職員の方たちはもちろん、日中は市の業務を行い、避難所の業務も行っていらっしゃいます。おそらく市の業務は今とても大変なことでしょうから、職員の方たちも苦労されていることだと思います。避難所を市が管理し始めのときは、夜間は市の職員一人だけだったそうです。その負担を少しでも軽減することで、復興の力になれたかなと思います。このことは、書記として組合の業務を行うことが結果的に子供たちのためになることと通ずるところがあり、改めて確認することができました。

また、避難所で夜を過ごすことは避難生活の日常を知る上では貴重な経験でした。まず、豪雨ということもありましたが、体育館では雨風の音がとても響きます。そして、ボランティア初日は最高震度4、ベースキャンプの地域では河川の増水により避難勧告が出ていました。そのような状況の中で眠りに就こうとしても、「揺れるかもしれない」「浸水はしないだろうか」という不安が過ぎり、なかなか安心して休むことはできないと感じました。しかし、朝になり起床されると皆さん明るく笑顔です。そして毎朝晩ボランティアで届けていただくお味噌汁をいただきます。私も美味しくいただき、こちらが元気をいただきました。そして、こうした人の温かさで身体が充電されることを感じました。

実際に見て、聞いて、初めて知った現実がたくさんありました。このことを多くの人に伝え、復興支援を広げるきかっけにしたいと思いました。今回の貴重な経験をさせていただいたことに感謝し、教職員、そして子どもたちのより良い未来のため、組合活動を支えていけるよう日々の業務にとりくんでいこうと思います。

※「負けんばい熊本」「がんばるけん熊本県」

ボランティア最終日。上記の言葉とくまモンのイラストが描かれた紙皿、そして、紙コップで作られた口がパクパクできるくまモン、割り箸が4本分つながった棒が本部の机上にありました。「ぜひ、皿回しをしてあげてください」。日勤の方がつくられ、楽しい時間を過ごすための工夫と優しい心配りに感動しました。お別れの朝に、避難されている方々に不器用な皿回しを披露したところ、その滑稽さに、皆さん笑いがこみ上げて我慢できない様子。パートナーと役割を決め、皿が落下したら皿を拾い上げて自分で「まけんばい!熊本!」すかさずもう一人が紙コップのくまモンをパクパクさせながら「がんばるけん!熊本県!」と連呼しました。皆さんの笑顔が嬉しかった。あまりにも成功することが少ないため、我も我もと皿回し体験に殺到され、誰も上手く回せない様子に皆で笑い合いました。

ボランティア直前の結団式で印象に残った言葉があります。実際に被災した者でないと、避難されている方の本当の辛さは分からないこと。子どもたちは、地震で天井が落ちると思い、家に入るのも怖いということ。恐怖に立ち竦み母親に抱きかかえられた子は立ち直りが比較的早いが、『我慢した子』はあとからストレスがはじけること。大人だって家の修理、罹災証明、避難所の人間関係など、心配することが山のようにあり、心身の疲労とストレスに苛まされていること。そして、今回は心的支援が目的で、寄り添うことが大事あり、つまり『日本教職員組合でしかできないボランティアである』ということでした。

避難所では、日勤夜勤合同の日誌が情報共有に役立ち、的確に事実や所見を日誌に記入することで「人」や避難所の「雰囲気」に関することがらを共通理解することができました。また、行政の方が被災者にひたすら寄り添う様子に感動しました。自分も被災者なのに、時間をかけて被災者の方全員の話を聴き、それを実行して形にされていたと思います。人間関係の問題が表面化し、トラブルが起きた際、何が問題なのかを焦点化しつつ多面的に解決を図り、皆と協力して解決しようと努力されていました。頭が下がります。

一緒に散歩したり、家族のことや世間話などをしたりする中で、多くの方が厳しい状況にあっても、「地震なんかに負けてらんね!だからいろいろ準備してるのさ」と気丈に頑張っておられることが分かりました。家に戻る方が増え、避難所の方が減ってくる中で、体育の授業やクラブが体育館の半分向こうで元気に行われていました。いつの日かまた、もとの平穏で笑顔があふれる生活が被災者の方々にも戻るよう祈りつつ熊本を後にしました。

※地震から2か月以上が過ぎ、一見平静さを取り戻したかに見える町も、ブルーシートで覆われた家が目につき、立ち入り禁止の貼り紙やロープが張られた建物がいたるところにある。

私たちがお手伝いさせていただいた避難所は、今回最も被害が大きかった益城町に隣接する熊本市東区の学校の体育館だった。地震直後はおよそ500人もの人が避難し、校舎の廊下にまで人があふれ、横になるスペースもなかったそうだ。みんな命からがら、取るものもとりあえず逃げてきて、住む家も失い、不安という言葉では言い表せない恐怖をかかえ、どんな日々を送られたことか、想像すら難しい。しかし、そんな極限状態のなかで、混乱を整理し、ルールを作り、見ず知らずの人々の集まりをリードする人がおられた。そして、人々が協力し、避難所の秩序が生まれ、きっちりとした自治が行われている。

この避難所には今も30数人の方が生活しておられる。体育館の後ろ半分が居住スペース。一人1枚の畳の上に布団が敷かれ、周りにわずかな着替えなどの身の回りのものが置いてある。仕切りはない。お話を伺うと、「仕切りをすると、他の人のしんどさや困っている状況が見えなくなるから仕切りはしないということに、みんなの意向でなった。金持ちもそうじゃないと思う人も関係ない。ここではみんな同じ。」と、言われた。ほんの数日しかいない私などにはわからないご苦労が多々おありだろうが、その言葉通り、みんなお互いを気遣い、声を掛け合い、助け合って生活しておられることがひしひしと伝わってきた。

体育館の前半分では授業や部活動が行われる。夕食の汁などを温めるのは、生徒さんたちの下校を待って、午後7時近くになってからガスに火をつける。お互いに気を遣い、譲り合って生活しておられる。食事は支援物資の非常食やお弁当が続く。避難所にお風呂はない。まだ寒かった4月半ばから今まで2か月以上もこの生活を耐えてこられたのかと思うと、胸が詰まる。

ここにおられる避難者は、高齢の方が多い。ある避難者の方は、「家は全壊。一人暮らしで、今の場所にまた新しく家を建てるのも、遠くに住む子どものところに行くのも難しい。まだ、先のことは決まっていない。」と、言われた。

小学校2年生・4年生・中学校2年生の子どももいる。子どもたちはここから学校へ通う。雨続きで、遊ぶところも友だちもいない。こんな小さい子たちが2か月以上もこんな生活をしていたら、ストレスが溜まってぐずりたくなる時だってある。そんな時お母さんは子どもを抱きしめ、じっくり話を聞いて諭しておられた。お父さんは単身赴任中。どんなにか気がかりなことだろう。

市の職員さんや先生方も大変だっただろう。自らも被災しながら、パニックに陥った町の機能を回復させるために、ほとんど休んでおられないようだった。

この5日間、何の役にも立っていない自分が歯がゆくて、申し訳なくて、いたたまれない思いだった。一方で、人はどう生きるべきかを学んだ日々でもあった。

政治や経済の基盤が確立しているといわれる日本だが、東日本大震災や原発事故からの復旧を見ても、とても順調に進んでいるとは言えない。熊本も同様だ。なぜ? 政府は国民の生活を守るのが、最優先なのではないのか。そんなことを考えてしまう。

これからも大規模な災害が予想される日本。いつどこで何が起きようと、常に隣人として行動できる自分でありたいと思う。

※限られた時間の中で、避難されている方々の気持ちに十分寄り添うこともできず、自分の力不足を痛感しています。一番印象に残り、そして今も気にかかっているのは、避難所が驚くほど静かだったということ。協力的?ルールを守っている?たまたま、おとなしい人が多い?…就学前の子どもや小学生など、体育館の中を元気よく走り回っている姿を想像していたので、本当に意外でした。その一方で、毎晩夜泣きする子もいました。やはり、地震の恐怖や避難所生活が続くことのストレスは計り知れないのかも。どこかで発散できていれば良いのですが。一日も早く、以前の生活が取り戻せることを心から祈っています。

※私は、夜勤班として参加しました。ドキドキしながら避難所に向かいましたが、熊本市の職員の方に気持ちよく向かい入れてもらい、逆に感謝されました。避難所の方も最初は誰が来たんだぁという雰囲気でしたが、5日間いるうちに最後は玄関まで見送ってもらい、涙ながらのお別れになりました。「家がないのは本当に辛い」と言っていたお母さんの言葉がとても残りました。みなさん本当に大変な中に避難所生活をされていました。物資がいろいろと届いていましたが、炊き出しができなくなってからは使えないものが多く、ただ保管室に入っているものだけなどありました。それを避難所の方は知っておられ、「あれはどうなると?」「保管しとらすけどなんで出さっさんと?」会話をしなければ誤解されていることも多いので、まめに声をかけ会話をすることが大切だと思いました。

※桜木小学校の体育館で4日間、主に清掃や食事の配膳等をさせていただきました。大雨洪水警報も出る中、避難所内は特に混乱もなく、日常の生活が行われているように見えました。しかし、注意深く見てみると避難されている皆さんは、長期にわたる非日常の生活を余儀なくされ、被災した自宅の行政支援レベルや新しい避難場所の移動などに不安を抱きつつ、日々を過ごされていました。

私たちにできることは限られていて、根本的な解決には程遠いことしかできませんでしたが、コーヒーの差し入れをいただく等、逆に元気をいただくこともありました。

この状況を職場の同僚や授業で生徒に伝えながら、息の長い支援につなげていきたいと考えています。

※自然災害による避難の現実を見た気がします。桜木東小学校避難所が7月5日で閉鎖されると聞きました。それまでに避難所を出てみなし仮設をはじめとする新居に移られる方、拠点避難所で避難生活を続けられる方、みなさんそれぞれに新たな課題を抱えながらの生活が続きます。この間の避難者の方々との交流を通じて、支援することの難しさを痛感しました。同時に、支援の形には決まり事がないのだなということも感じました。私はとにかく避難所が避難者にとってストレスの場にならないよう心がけたつもりですが、一体何ができたのか、無力感だけが残りました。

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