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熊本地震とりくみニュース⑦ 被災地支援・教育復興ボランティア活動 第3ターム参加者報告

2016/09/06

熊本地震とりくみニュース⑦
被災地支援・教育復興ボランティア活動 第3ターム参加者報告

 2016年9月6日



6月2日から、教育復興、避難所における子どもへの対応といった目的のために、独自にボランティア活動にとりくんでいます。6月10日から同14日の第3タームには、全国から24人が参加しました。参加者の声をお伝えします。

※不謹慎だが、ボランティア活動をしながらも、私の関心は被災者自身にではなく、被災者を受け入れる側(行政・学校、地元住民・国民)に向いていた。

発災から2か月。小学校体育館への避難者は30人以下に減少し、ステージ側前半分に身を寄せ、後半分は授業に使われていた。市役所の担当者が日常業務をこなしながら昼と夜、交代で1人が張り付く。地元の民生委員等が交代で食事時の手伝いに来る。体育館内の秩序は保たれ、自主的な清掃活動などが行われていた。

今回の災害は、前震の後の本震で多大な被害が出たこと、その後の余震が長く続いていることが特徴である。避難者の中には、全壊、大規模半壊等で家に住めない方もいれば、日中は住めるが寝るのは怖いから夜だけ避難してくる方もいる。今後、仮設住宅建設や雇用促進住宅の点検が進めば、家を失った方たちの入居が始まるだろう。その時「怖い」から避難している方たちを受け入れる場所はあるのだろうか?

あれから5年経った福島では「放射能の影響が怖い」から県外に避難している方が今でも大勢いる。戻ってきた人もいるし、避難しなかった人もいる。程度の差こそあれ「放射能の影響が怖い」気持ちは一緒である。しかし、避難の期間が長引けば長引くほど、被災者を受け入れる側から「いつまで怖がっているの!」という声が聞こえてきそうである。

熊本は地震(天災)、福島は放射能(人災)の違いはある。「もっと大きな地震が来るのではないか」と怖がる気持ち。「放射能の影響があるのではないか」と怖がる気持ち。

この怖がる気持ちを、被災者を受け入れる側の多くの人に。

※「うち『赤』やけん。帰れんばい」ふと口にした子どもがいた。胸が詰まる思いだった。帰りたくても帰れない、避難所にいたくている人なんていない。避難者の情況をもう一度考えてほしい。まだ支援は必要で、それは東日本大震災で被災している人も同じだと感じた。

※私が見た学校は地域の事情もあり、今後も避難所を継続する方針であり、大変協力的です。しかし、一転して学校環境に目を向けると、被災ゴミが周辺に放置されていたり、犬や猫がうろついていたりしていて、とても恵まれた状況ではありません。また、子どもたちの表情もあまり明るくなく、こちらが朝にあいさつをしても、返事がない子どもも多く感じられました。ボランティア支援は、今後も継続したほうがよいのは間違いないのですが、私たちがとりくむべきは子どもたちの支援、そして仲間である教職員への支援ではないかと思います。もっと学校の授業の様子等を見たり、熊本県教組の意見を吸い上げたりしながら、今後の在り方を考えていくことが求められているように思いました。

※今回のボランティアでは、小学校の体育館に設置された避難所支援を担当した。避難所の運営をお手伝いさせていただくことで、避難所に配属されている熊本市の職員の皆さんが、罹災証明書の発行業務はもちろんのこと、本来の業務に従事できるようになるというお話を聞き、避難所に向かった。

避難所でご一緒した職員の方のお話では、「4月に新たに配属された職場の仕事を覚える前に、避難所の支援の仕事が入ってきた。本来の業務が進んでいない。国から復興のための予算が下りてきても、執行するための仕事ができない」と話していた。避難者の数や物資の状況によって、配属場所が変わる指示がくることもあった。そんな状況の中でも、職員の皆さんは、避難者一人ひとりの状況を把握しながら優しく声をかけたり、今後の生活について相談にのったり、心に寄り添った支援をされていた。

私たちが5日間でできることは、限られている。熊本で過ごした時間よりも、戻ってからどれだけ多くの人に、熊本の現状を知ってもらうかが私たちボランティア参加者に課された役割ではないだろうか。伝えていくことを大切にしたい。

※震災から2か月が経過して、避難所で生活する被災者は減少傾向とのことであったが、益城町や秋津地区など、被害の大きかった地域で暮らしていた人々は、住居を失い、避難所で不自由な暮らしを余儀なくされていた。

行政の職員は、避難所の管理を続けながら、罹災証明の発行に追われ、休む間もなく勤務されており、体力的にも精神的にも厳しい日々を過ごされていた。私は、避難所で夕方から翌朝にかけて、行政の職員を補助する職務についた。幸いにも、大きな余震もなく、避難者も落ち着かれていたが、深夜トイレに起きてくる度に、私たちに一礼して行く避難者の様子を見て、「自宅ならば誰にも気を遣わずにトイレに行けるのに。」と、申し訳ない気持ちになった。朝、登校してくる子どもたちの様子を見ていると、震災の恐怖から親の側を離れることができずにいる児童もいた。震災からの復興に時間がかかることは、東日本大震災の経験からわかってはいるが、義援金などが未だに被災者のもとに届いていない現状が歯がゆい。実際に、被災地で生活をともにすることで、募金や食料品などの物資の支援だけでは、到底救うことができないと痛感した。

必要なのは、「人間の関わり」なのではないだろうか。「一人じゃない」そんな気持ちをもってもらうことができればと願う。

※駅すぐの春日小学校で結団式があった。主催者挨拶の後、現地熊本県教組の上杉書記長から現状を聞いた。「学校では通常業務がスタートしている。現場では『通知票をどうするのか』といった声が出てきている」「DV被害にあって避難所に逃げていた被害者が、ボランティアに交じって避難所にやって来た加害者と出会ってしまったことがあり、その対応も学校がしなければならない」など、現地の抱える課題の大きさを改めて思い知らされた。

5日間を通し、一番強く感じたのは、現地の人々(避難者はもちろん、職員・看護師などのスタッフもふくめて)の日常は「きれいごと」ではすまされないということだ。この生活がいつまで続くのかという先の見えない不安は想像を絶するものがある。プライバシーの守られない避難所での長期にわたる生活により、現地の方の精神的肉体的疲労はピークに達している。そのために体調を崩されている方もおられたが、私たちに話しかけてこられる方もたくさんおられ、ボランティアの私たちが元気をもらうこともあった。避難所ボランティアに行くに当たり、避難されている方々のストレスを少しでも和らげることができたら、と考えていたが、市役所職員さんの「私たちは避難所を一日でも早く閉鎖し、元の生活に近い生活を送ってもらえるようになることが大前提と考えています。だから、避難所があまりにも快適な場所になってはならないと思っています」との言葉に、本当の意味で避難者のみなさんに必要なことがどういうことであるかを考えさせられるとともに、自分の浅はかさを思い知らされた。

この5日間の経験は、教員であること以前に一社会人として、もっと言えば一人の人間として大きな糧になったことは間違いない。子どもとの関わりにおける自分のあり方は言うまでもなく、日常における自分の生き方を考え、見つめ直すきっかけとなった。この経験をこれからの自分の人生に活かしていきたいと思うと同時に、このような機会を与えていただいたことに感謝したい。そして、またこういう機会があれば、微力ながら参加したいと思う。

※日中は各々が、仕事や自宅の片付けに向かわれるのであろうか、避難者数は多くても4〜5人であり、ご高齢の方々のみが残る。夜になると多くの方が帰ってこられ、人数は40人程度にまで増える。避難所を離れ、日々の暮らしを取り戻しつつあるように見えるが、まだまだ安心して眠れる場所が無いということなのであろう。ここが熊本市内にある避難所の一か所であることを考えると、多くの人が2か月たった今も先行きの見えない日々を送っている現実がある。ボランティアとしてなにができるのか、なにをなすべきなのか試行錯誤の日々が始まった。

この避難所ではいち早く自治組織を立ち上げ、ルール作りにとりくんだそうである。自治組織の会長さんに当事の様子を伺うと、「ここに避難してきた者はみんな平等であることを徹底した。自分たちの事を自分たちで協力してやっていくために、言いにくいことも、怖い思いをしてでも、言わなきゃいけないことは言ってきた。本気で怒り、本気で伝えることが大切だった。」と聞かせてくださった。ご高齢の方ではあったが、ユーモアと知性、エネルギーに溢れた素晴らしい方だった。

この避難所では、こうした方々の努力もあり、支援する側の人たちとのコミュニケーションもしっかり図られ、トラブルを未然に防ぐ体制が整えられていた。しかし、他の避難所では、避難者と支援者側の間でトラブルやクレームが頻発し、支援する側が疲弊してしまっているところも多いと聞いた。被災しながらも社会的立場から、支援する側として日々尽力されている方々の心のケアも重要な視点であることを学んだ。

一日も早く、何気ない日常の暮らしが戻ってくることを心から願うとともに、地道でも持続的な支援を続けていかなければならない。

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