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東日本大震災・東電福島第一原発事故から6年 被災地からの報告【岩手】

2017/03/09

写真 震災後に発行した最初の機関紙

写真 2011年 被災した「道の駅」陸前高田市

東日本大震災から6度目の春を迎えて 
岩手県教職員組合中央執行委員長  佐藤 淳一

東日本大震災から6度目の春を迎えました。被災地では大人も子どもも、教職員も児童・生徒も、傷ついた気持ちを心の奥底に押し込めながら、復旧・復興に向けて必死に前を向いて歩んできた年月でした。
あの日、内陸の児童自立支援施設に併設されている学校に勤務していた私は、生徒たちと卒業文集の製本作業をしていました。突然の経験したことのない揺れに、とりあえず校舎から外に避難し、生徒たちの無事を確認しましたが、教職員も生徒たちも呆然として声も出ない状態でした。沿岸生まれの私は、すぐに津波の心配をしましたが、停電のためテレビを見ることはできず、沿岸の被害状況を見ることができたのは数日後のことでした。半月ほど経って、親戚に物資を届けるために沿岸を訪れましたが、見渡す限りがれきの山が広がり、思い出の中の街の姿はどこにもなく、言葉も見つかりませんでした。

被災直後の県内の学校は、今まで「普通」だと思っていた教育活動ができなくなりました。2011年秋の岩教組教研では、「今まで普通だと思っていた学校の教育活動が、本当にそうなのか検討する必要があるのではないか。」「子どもたちにとって何が本当に大事なことなのかについて、私たちも真剣に考え直す必要があるのではないか。」といった声が多く聞かれました。
しかし、年月が過ぎてゆく中で、被災地でも被災地以外の学校と同じく、あるいはそれ以上に被災前の学校の教育活動に「積み増し」になったものが多くあり、職場は多忙化の渦に再び飲み込まれています。心が傷ついた子どもたちに寄り添い、一人ひとりにていねいに接していく営みを大事にしたいのに、それができない現実に途方にくれる状況もみられます。私たちに心の余裕がなければ、子どもたちへの対応にも当然余裕がなくなっていきます。今、被災経験の風化と闘いながら、合わせて私たちが取り組むべきなのは、多忙化と闘い、子どもたちにも教職員にもゆとりのある学校づくり、その地域や子どもたちの状況をもとにした教育課程づくりを主体性をもって進めていくことだと思っています。

この間の日教組を中心とした被災地への支援に感謝しつつ、少しでも被災地に思いを寄せていただくことを願い、以下に、沿岸地区からの2つの報告を紹介させていただきます。

【気仙地区(大船渡市・陸前高田市など)】
津波の被害を受けなかった学校のほとんどに、仮設住宅が建ちました。学校と隣り合わせにある市営野球場にも仮設住宅が建ちました。球場は、災害公営住宅に入居できない世帯の集約団地として残り、撤去の見通しは立っていません。一階天井まで浸水し、その後解体された中学校は、学区内にあるキャンプ場に建てられた仮設校舎で学びました。新しい校舎は、元の土地をかさ上げし後ろの山を削って造成した用地に建設しています。
沿岸部にある学校・市町は、軒並み津波の被害を受けましたが、その後の仮設住宅の整備では大きく対応が分かれました。大船渡・陸前高田では、津波の被害がなかった28校のうち20校に仮設住宅が建てられました。校庭に仮設住宅が建ったのは、高校を含め県全体で32校、そのうち22校が大船渡・陸前高田地区でした。
全国のさまざまな団体・企業・個人から多くの支援をいただきました。運動会への支援や、中学校では様々なキャリア教育・職場体験などへの支援バスがありましたが、多くが終了しました。県内にとどまらず、全国の多くの皆様、とりわけ日教組や連合を通じてたくさんの御支援を頂きました。心から感謝しています。現場は、少しずつ日常を取り戻しつつありますが、教育環境はまだまだ復旧の道半ばというのが偽らざる感想です。これからも、引き続き関心を寄せていただきたく、気持ちだけで結構ですから、被災地を見守っていただければ幸いです。

【釜石・大槌地区】
2016年1月、岩手県内の中央部にある小学校の建築がさらに遅れるとの記事が載りました。全国的な建設コスト高騰の影響により、開校予定が2年間延期となっていたが、財源確保や事業の調整がさらに必要となり開校については延期せざるを得ない状況となったと記事は伝えていました。政権による積極的な公共事業や2020年の東京オリンピック開催誘致が被災地に多大な負の影響を及ぼすことは、当初からかなりの確信をもって伝えられていることでしたが、被災県ではあっても、直接被災地ではない県央部でもこうなんだとあらためて複雑な思いでこの記事を読みました。
釜石支部内で、東日本大地震、大津波により校舎再建を余儀なくされた学校は小中学校あわせて6校で、現在校舎再建中ですが、資材費高騰による事業費削減や、資材や人員不足による入札不調で開校が延期されたのはここ釜石、大槌も例外ではありません。

▷鵜住居小・釜石東中併設校舎
文科省から事業費を削減の指導を受け、当初計画より10億8900万円減の54億6000万円。体育館の面積などを削り建物面積を削減。構造は鉄筋コンクリート造りから鉄骨造りに変更し資材が高騰しているコンクリートの使用を抑える。(2014・8・26 岩手日報)

▷唐丹小・唐丹中併設校舎】
全国的なコンクリート不足を受け、当初計画の鉄筋コンクリート造り7棟建てから木造5棟建てに変更。設計見直しにより、2016年4月としていた開校は「遅くとも17年4月までの部分開校」にずれ込む。部分開校した後、体育館とプールを整備し18年8月の工事完了をめざす。設計見直しにより事業費は60億円から40億円に縮小。(2014・10・21 岩手日報)

▷おおつち学園小中一貫教育校校舎
建設工事入札が二度不落になった影響で開校が半年ほどずれ込む見通し。建設業者の人材不足が最大の理由。事業費は5億7100万円増額し、総額62億2668万円。16年9月完工、10月ごろの開校を見込む。(2014・10・10 岩手日報)

「3・11」が近づくと、被災地にまたあの日が近づいてきたことを否応なしに教えてくれるものがあります。その一つはマスコミからの情報です。「震災から6年」「月命日」…。こんな言葉はいったいいつになったら使われなくなるのでしょうか。10年、20年経ったら、せめて月毎にきざまれた表現は少なくなるのかもしれません。しかし、使われなくなることがいいこと、心地よいとはいわないまでも、無神経に心みだされる思いをしなくなるのでしょうか。それともまったく逆に、震災の風化と抗うべきことなのでしょうか。

「復興」とは何でしょうか。何がどうなれば「復興した」といえるのでしょうか。これは、沿岸被災地の学校に勤務し、自らも被災地に住んでいる仲間からの問いかけです。道路が通ること、学校が再建されること、自宅が再建されること…。被災し失ったものは人それぞれ違います。だから「復興」もそれぞれの状況によって違うのかもしれません。一人ひとりの心の「復興」はなおさらだと思います。

あの瓦礫の中から学校は一歩一歩日常の生活へと歩みを進めています。運動会、学習発表会、授業参観…。避難所となった学校で児童生徒と一緒にくらす地域の方々は、子どもたちが精いっぱい、走り、笑い、転び、泣く…。そんな子どもたちの姿をみて感動し涙していました。学校で繰り返される子どもたちの当たり前の日常が、どれだけ保護者や家族、地域を勇気づけることなのかを目の当たりにしました。そして、
「子どもは地域の宝」 「学校は地域の夢を育むところ。未来そのもの」
あの震災を経験し、被災地で働く私たち教職員は、この言葉を身に染みて実体験として経験することができたのです。
しかし、「教育活動の正常化」「震災で子ども達の教育の機会均等に不利益があってはならない」という言葉とともに、「全国学力・学習状況調査」や「体力テスト」、さまざまな学力検査やテスト、学校公開や校内研究会等も再び実施されるようになってきました。
あのとき、小学校に入学する前の子たちが今、小学校高学年になっています。落ち着いた生活がなかなかできていないということもよく聞きます。あの混乱した地域の状況や家族の様子をうまく自分の言葉で整理するすべさえ持っていなかったことが原因だとすれば、私たち教職員は、子どもたち一人ひとりの心の奥底にあるその行動の根っこにあるものを探り当て、そこにやさしく手を差し伸べなければならないと思います。
日常生活の中で、子どもたち一人ひとりと向き合う時間を奪うもの、向き合おうとする教職員の気持ちを奪うもの、子どもたちにやさしく接してあげることを可能にする、教職員が心身ともに休養するための時間を奪うもの、これらを注意深く拒まなければならないと思います。それが被災地で働く教職員の使命であると思っています。

東日本大震災関連情宣紙「つなぐ」はこちら

東日本大震災関連機関紙
「つなぐ」
第1号2011年3月より
2012年10月まで66号発行

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